「竹内街道を歩く」  

 

日時  平成26年6月15日(日) 9時~16時   歩行距離 14km

コ-ス 近鉄南大阪線「磐城駅」→長尾神社→竹内街道→竹内集落→綿弓塚→竹内峠→

     万葉の森→竹内街道歴史記念館→孝徳天皇稜→「上太子駅」→南海高野線「堺東駅」

     →堺市役所→千利休屋敷跡→与謝野晶子生誕の地→南宗寺→大安寺→

     土塔(行基)→南海高野線「堺東駅」

 

「竹内街道の概要

 

河内と大和を結ぶ竹内街道は、飛鳥から横大路、竹内峠、二上山南麓、太子町を経て堺へ至る。更に難波京へと続くのではと推察されるがその痕跡は見当たらない。堺東に今も「大小路」と言う地名が残っている。

わが国で最初に整備された官道で、飛鳥時代には「丹比(たじひ)道」や「大道」と呼ばれた。日本書紀によると推古天皇21年(613年)に「難波より京に至るまでの大道を置く」とある。このきっかけは、難波の津に来朝する遣隋使であった。

この街道が最も盛んに利用されたのは推古帝から元明帝に至る時期。ここを通って大陸や朝鮮の文化が我が国に伝来し、外国の使臣や内外の要人が往来した。しかし竹内街道は平安遷都により次第に外交路としての意味を失っていく。

しかし鎌倉時代には聖徳太子信仰の高まりと共に「叡福寺」への参詣や、伊勢参りの道として賑わった。江戸時代には大和と河内を結ぶ物流の幹線路としてその役割があった。

今は、国道と高速道路に寸断されているが、竹内集落や太子町周辺にその面影を残している。今回は、主として竹内集落、竹内峠、二上山南麓、太子町(近つ飛鳥)、堺を中心に歩いてみた。「街道を行く」の中に、作者「司馬遼太郎」の母の生家跡として、須田刻太描くスケッチが有名であるが、これを探しながら歩いてみた。これかな、あれかなとは思ったがさてどうでしょうか。全体を通しての印象では、古道の雰囲気を残しているところもあり、またそれぞれの町では家並みの保存と、遺構の修復に熱心でまことにご苦労様と申し上げる。

 

  1. 長尾神社-竹内集落

    「橿原神宮前駅」から近鉄南大阪線で「当麻寺駅」の一つ前の「磐城駅」で降りる。駅の近くに「長尾神社」。ここを起点として歩きはじめる。境内には豊かな樹叢。主神は水の神「水光(みひか)(ひめ)命」。ここは河内と大和各地の街道の集合地。

    坂を上り始めると「竹内集落」、背後には大和平野が広がる。家々は白壁で整備され、豊かさを感じる。側溝には葛城山からの水が勢いよく流れている。集落のに芭蕉ゆかりの「綿弓塚」。「野ざらし紀行」に出てくる。

 

 

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2、竹内峠

竹内集落を過ぎるとは人影のない林の中の道となる。時折物好きなオートバイのライダ―が通り過ぎていく。

 

息を切らせて坂道を登ると国道に出る、そこが竹内峠。大阪と奈良の県境。昔は「鶯の関」といい、茶店があったとか。昔は大変な悪路で、何度も難工事が行われた。

 

3、万葉の森→鹿谷寺跡→展望台→孝徳天皇稜

   峠を過ぎると、二上山への登山口となる万葉の森公園で人が多くなる。ここから急坂を上ると鹿谷寺跡で、

   寺伝はよく分からない。今は、石造りの十三重塔と、如来像三体が岩に刻まれている。おそらく河内平野の

   渡来人が作ったものであろう。更に岩をよじ登ると展望台。ここからは後ろに二上山、前には()長谷(ながたに)

   河内平野が一望できる。

   万葉公園まで下りて、国道を車に注意しながらしばらく行くと竹内街道歴史記念館。ここの道の駅で

   この地の名物「ブドウ」を買って喉を潤しながらひたすら歩く。孝徳天皇稜が出てくる。姉の皇極天皇、

   甥の中大兄皇子、妻にまで裏切られて死ぬ、気の毒な孝徳天皇稜がひっそりとある。

 

4、上の太子駅→堺東駅→堺市役所(仁徳天皇稜・反正天皇稜・履中天皇稜・ニサンザイ古墳)

孝徳天皇稜を過ぎると段々、普通の民家の続く道となり街道に風情は全くない。早く堺へと気がせく。

堺は現在分かっている竹内街道の終点。古代はここから難波の上町台地に在った「難波宮」まで街道は続いていたはずであるが、今はもう分からない。竹内街道を表す碑を探すが分からない。警察署にまで聞くが「さあ」との返事。諦めて、その地点と思われる「大小路」の交差点で撮影。単なる普通の交差点。

市役所の屋上展望台で「百舌鳥古墳群」を上から俯瞰する。

「仁徳天皇稜」  16代 日本最大の前方後円墳 全長 486m

「反正天皇稜」  18代 全長 148m

「履中天皇稜」  17代 全長 365m

 

(百舌鳥古墳群)

古代大和王権は、奈良盆地の三輪山山麓に発祥したが、5世紀になると河内平野に移動して古市古墳群や

百舌鳥古墳群が築造された。ここには112基の古墳が確認されている。いわゆる倭の五王(讃、珍、済、興、武)の墳墓もここだと言われる。

(市役所屋上からの遠望)

ここは、巨大すぎて近づくと全貌が分からない古墳を俯瞰する絶好の場所となっている。まず目に下に最大の

仁徳天皇稜(大山古墳    )、次々と見えるのは圧巻である。

 

 

5、千利休屋敷跡-与謝野晶子生家跡-南宗寺

千利休は堺の人で、武野紹鴎(じょうおう)に茶を学ぶ。信長、秀吉に遇されたがのち秀吉に切腹を命ぜられ、

南宗寺に千一門の碑がある。情熱の歌人と言われた与謝野晶子は堺の和菓子屋を生家とする。

 

6、土塔(大野寺)

行基が築いた大野寺の前に、行基が作ったとされるピラミッド状の仏塔「土塔」が復元されている。底辺50m余、

高さ8m余、12層。このような土の仏塔は珍しく、奈良市高畑町にある僧「玄昉」の首塚とされる「頭塔」位しかない。

これは東大寺の実忠の作と言われる。

行基:奈良時代の僧、飛鳥寺の道昭に師事。社会事業を盛んに行い、後大仏造営の勧進を行う。

玄昉:奈良時代の僧、遣唐使。藤原広嗣の乱で筑紫観世音寺に流される。後首だけが奈良に飛んできて首塚となる。

実忠:東大寺の僧。修二会を創始したとされる。

 

「感想」

・遠く飛鳥・奈良の時代、外交の道、葬送の道、物流の道として日本最初の官道となった

 「竹内街道」。今も残る街道と、古代の人の息吹を求めての旅。かなりの距離であったが、

 満足した。

・竹内集落は、大和平野を見下ろしながら今も眠りについたように静寂、まさに

 「司馬遼太郎」の世界。

・ただ願わくば、葛城市は旧道の復活、整備にもう少し意を用いてほしい。さすれば我々の

 ロマンはもっと広がり行きかう人も増えるであろう。

・次は「当麻(たぎま)(みち)」(さらなる古道で、当麻寺と二上山を結ぶ難路)を再度歩いてみよう。