191025④「日本の冷夏~天明・天保の飢饉と平成の米騒動」
江戸時代の五大飢饉 寛永・元禄・享保・宝永・天明
1372年の享保の飢饉は、異常気象によるものではなく虫害(ウンカ)であった。
ウンカ→カメムシ目ウンカ科の昆虫。稲の大害虫。
「江戸時代の気象」 寒冷化
・太陽活動の黒点が少なかったことが記録されている。→寒冷化の原因
太陽活動と黒点の関係であるが、黒点は温度が低いので黒く見える。しかしその周辺はプラ-ジュ
と言って、活動が活発なので、黒点が多いと地球温度は上昇する。(意外かもしれないが)
・江戸時代の1600年~1850年 平均気温は20℃で、現在より2・5℃低かった。これが大飢饉の
原因。またこの時代には、火山活動も活発で噴煙も温度低下に影響した。
・冷夏の二つのタイプ
第一種 オホ-ツク冷気が太平洋岸に。山背。
第二種 シベリア寒気が日本海岸に。
(寛永の飢饉) 1640~1643年
西日本の初夏の旱魃、秋の長雨。これが全国的な異常気象となる。不作による物価急騰で寛永通宝の発行停止などに追い込まれる。将軍家光は以下の政策を行う。
交通確保のための宿場の支援、諸大名に帰国して領民保護を指示、煙草の製作禁止、身売りの
禁止、酒の醸造禁止、菓子類の製造禁止・・・・。
当時の江戸幕府の武断政治(戦時体制)から、撫民政策(民衆重視)への転換点となった。
これがのちの幕府の政策のスタンダ-ドとなる。
(元禄の飢饉)1695~1696年
太陽活動が低迷し、黒点が観測されなかったとも。東北地方を中心とした冷害。この時期、綱吉による「生類憐みの令」が施行され、肉食が禁止され山間部の人々は難儀した。
(天明の飢饉)1782~1788年 日本近世最大の飢饉
長梅雨、冷夏、秋雨前線、ヤマセ(山背)→東北地方に初夏に吹く冷たい風
東北に被害多く、特に弘前藩は人口の半分を失ったといわれる。農民は都市に流入し、打ちこわし
頻発。これにより、寛政の改革(松平定信 白河藩主)の切っ掛けとなる。
「明治以降の飢饉」
凶作とは、前年作柄の90%以下
(明治の凶作) 1902~1913年 作柄指数 10~20%
(昭和の凶作)1931~1934年 作柄指数 50~70%
冷害に強い農林1号の開発(戦後のコシヒカリの原型)
(戦後の凶作)
1945 作柄指数 70%
1953
1971
1980
1993(平成5年) 作柄指数 74% 平成の米騒動 第一種・第二種の冷夏
「梅雨入り・明け」とは
・梅雨入り 気象庁では6月7月の段階で梅雨入りしたとみられると発表し、最終的に8月に正式に
発表するある地域で、梅雨前線が停滞すると予想された時。
・梅雨明け ある地域で梅雨前線が北上し晴天が続きと予想された時期。
1993年には、初めて梅雨明けを発表できなかった。
「平成の米騒動」 1993年 平成5年
この年の作柄指数は74%で、生産量780万トン、消費量1000万トン 200万トンの不足
この為、政府は250万トンの輸入米を手当てした。
この年から、食糧管理法が廃止され、農家が直接販売できるようになった。
「食糧管理法」
戦争中に制定された。食料の生産・流通・消費に政府が管理するというもの。食料不足の状況で、国民に安定的に供給するという目的。しかし、食糧余りが常態化すると、政府の逆ザヤ・ヤミ米などの問題が大きくなり、1995年に廃止。
「コメント」
農業技術の低い時代に、冷害が起きると壊滅的な被害。そもそも米が日本に、特に東北他方に
適しているのかという疑問も持つ。ここの所、凶作の年はないが、異常気象による発生は無視できない。