190222⑧「近代の薬と毒-細菌学・病原微生物学の誕生」
今回と次回は、明治時代の薬学と化学者の活躍である。明治になると進んだ科学技術を学ぶために欧州に多くの留学生が送り込まれた。この時代、細菌学というジャンルが成立し、様々な病原菌の正体が判明し、対処方法が考えられた。抗生物質が発見されたのもこの頃。
我が国の研究者たちは目覚ましい活躍をした。
(細菌の発見と細菌微生物学の発展)
「北里柴三郎」
細菌学者。熊本阿蘇出身。コッホに師事して破傷風菌の純粋培養に成功、その毒素を証明し、抗毒素血清療法を開発した。べ-リングとともに血清療法を創始。北里研究所を創設。ベーリングは第一回ノーベル生理学・医学賞を受賞、北里が共同受賞しなかったのは、きわめて不思議で残念なことであった。
「エ-ルリヒ」
コッホの弟子。ドイツの細菌学者・生化学者。母子免疫を発見。
選択毒性の考え方を考案し、この応用として抗生物質や殺虫剤が生まれた。選択毒性とは、所定の種類の生物にのみ生命活動を阻害し、致死させる性質のことで、この性質を持つ物質はその生物に対して選択毒と呼ばれる。
「秦佐八郎」
エ-ルリヒの研究所には、北里柴三郎の弟子の秦佐八郎がいて、エ-ルリヒの指導の下で、梅毒
治療剤サルバルサンを発見した。
「高峰譲吉」
薬学者・化学者。理化学研究所を創設。タカ-ジアスタ-ゼ・アドレナリンなどを純粋単離。
「鈴木梅太郎」
農芸化学者。東京帝大教授。米糠が脚気の予防に寄与することを発見。ここからオリザニンを単離し、これが世界初のビタミンb1の発見となる。
「長井長義」
薬学者。エフェドリンの発見者。日本の近代薬学の祖。漢方薬の研究と成分抽出は特筆すべき業績である。麻黄からエフェドリン(アルカロイド)を抽出し、気管支拡張剤として、喘息患者の助けとなった。薬学界に貢献し、妻はドイツ人で雙葉学園の開設者。
「ゼンメルバイス」
ハンガリ-の産科医。臨床観察から産褥熱が接触感染から起きることを推定し、医師、助産婦の手洗い励行をさせた。
死亡率を激減させた。
産褥熱→出産によって生じた、産道や子宮内の創傷が細菌に感染して引き起こされる発熱。
「リスタ-」
イギリスの外科医。当時、手術部位から異常が起きて死亡することが多かった。これが異臭を発していることに着目し、下水に撒いていた石炭酸(フェノ-ル)を思いつく。希釈したものを手術部位に噴霧すると、死亡率が大幅に減少した。
(菌微生物学の発展)
このような対応策が講じられ始めるのは、病原菌が発見され始めたからである。
コッホの結核菌を発見した1882年から、病気が病原菌によって発生することが分かってくる。しかし、逆に何でも病気の原因は病原菌のせいという風潮も出てくる。当時の病原微生物学は隆盛を極めたので、脚気も脚気菌のせいとされた。
「脚気」
ビタミン欠乏症で、心不全と末梢神経障害をきたす。明治時代まで結核と並んで二大国民病といわれた。当時の東京帝大の緒方正規及び陸軍軍医総監森鴎外は、脚気菌説を取る。一方留学中の北里柴三郎は脚気菌などありえないとした。
海軍はタンパク質説を取り、対応し麦飯・パン食を、陸軍は白米食としたので脚気に悩まされた。
「コッホの四原則」
感染症の病原体を特定する際の指針の一つ。
・ある病気には一定の微生物が見いだされる。
・その微生物を分離できること。
・分離した微生物を感受性のある動物に感染させて、同じ病気を起こさせることができる。
・その病変部から同じ微生物が分離されること。
「赤痢菌の発見」 志賀潔
北里柴三郎の弟子。ドイツに留学しエ-ルリッヒに師事し化学療法を研究。
選択毒性の考え方で研究していたが、ベンチジン系赤色色素の治療効果を明らかにし、トリパンロ-トを命名した。
北里の支援指導を得て赤痢菌を発見したが、北里は単独での発表を許した。
先述の秦佐八郎の梅毒治療薬サルバルサンの発見も、選択毒性を示すトリパンロ-トの存在が大きいとされる。
(近代薬学及び有機化学の導入と発展)
日本における近代薬学教育が最初に始まったのは東京帝大薬学部である。その薬学教育はかなりの変遷を経て現在に至っている。
・東京医学校生薬学科 1873年
・東京帝大医科大学薬学科
・東京帝大医学部薬学科
・東京帝大薬学部
最初の出発点が医学校製薬学科というのは注目すべき。結局日本における大学の薬学教育は、薬剤師教育というより、製薬に重点が置かれていた。そのほかには、世界的にも珍しいが、工学部・理工学部の薬学が置かれていた例もある。
(例) ・徳島大学 前身 徳島高等工業学校 応用科学科製薬科学部→徳島大学工学部製薬学科→
徳島大学薬学部
・日本大学工学部薬学科→薬学部
現在は薬学部として独立しているが、旧帝大は医学部薬学科の前身を持つ。
「ヒロポン」
ある化合物を天然から取った場合、その化合物に色々な科学的変化を加えて、それで元の化合物の化学構造がなんであるかを調べることがよく行われる。エフェドリンも、その化学構造を調べる時に、そこにある水酸塩を取ってしまう化学反応がなされた。その結果得られたのが、メタンフェタミン。別名ヒロポン。強い中枢神経興奮作用及び精神依存性・習慣性がある。第二次世界大戦で軍が使用したのが、戦後の大流行のきっかけとなった。
「日本薬局方」
医薬品の性状及び品質の適性を図るために法律に基づき公示される。日本薬局方は1886年(明治19年)公示されたのが最初。政府の招きで来日した、ゲ-ルツ(オランダ)が、日本薬局方の作成を依頼され、オランダを参考に作成した。
「疾病に関する治療開発の黎明期」
北里柴三郎のジフテリアの血清療法を述べたが、その後種々の対処方法が考え出される。
・トリパンロ-ト
・サルバルサン
秦佐八郎は、ドイツ留学中にエ-ルリヒと共同で、梅毒の特効薬サルバルサンを開発。日本は
その後ドイツから輸入していたが、第一次大戦で輸入が途絶える。彼は、三共製薬と協力して
国産化に成功する。
・秦 藤樹 秦佐八郎の女婿
抗ガン性抗生物質マイトマイシンCを発見。
このように細菌学・微生物学の進展が、種々の疾病に対する治療法として、化学合成のサルファ剤とかいろいろなものに繋がっていく。やがて抗生物質の時代になっていく。
「コメント」
段々と難解になり、今回はまさにチンプンカンプン。医学薬学でこんなに日本人が活躍していたとは寡聞にして知らなかった。それにしては、製薬業が世界に立ち遅れたのはなぜか。ドイツが先端であるのは理解できるが。