科学と人間「漱石、近代科学と出会う」 小山 慶太 (早稲田大学教授)
161230⑬「漱石が生きた時代と科学の激動期」
漱石が生きた19世紀から20世紀初頭にかけては、科学の大きな変革期。特に物理学の激動期になる。相対性理論・量子力学が生まれたりという時代。当時、欧米留学中の長岡半太郎は手紙で
「革命革命」と書いている。今日は最終回なので、漱石が生きた時代と科学の発展の時代がどういう背景になっているかを見てみる。
「湯川秀樹」1907~1981
京大卒物理学者。中間子の存在を予言し、素粒子論展開の契機を作った。ノ-ベル賞・文化勲章。
彼は随筆「旅人」で次のように書いている。「私の妻の父と漱石の関係を知ったのは、父が死んで
からである。」
明治44年漱石は大阪の今橋にあった父の病院に入院した。そして漱石は、作品「行人」の中で、
主人公三沢が入院した病院の院長は、湯川の父をモデルにしたといわれる。「院長はモ-ニングを着て、医員と看護婦を従えていた。色の浅黒い鼻筋の通った立派な男で、言葉遣いや態度にも容貌の示す如く品格があった。」この様に実体験を作品に生かしているのである。
「レントゲンのX線の発見」→漱石がロンドン留学中の頃
レントゲン(独)が、透視能力が異常に高いX線を発見した。これは大旋風を巻き起こした。これを
ラウエ等が研究発展させた。X線の発見は偶然であったが、それは物理学の方向を目に見えない
ミクロの世界に踏み込んでいくきっかけを作った。ベクレル(仏)はウラン化合物から放射能を発見。
ここから、未知の化合物から放射能の発見ラッシュ。
キュ-リ-夫人は、ベクレルの研究を発展させたのである。放射線の源はウラン化合物であることを突き止めた。
X線・α線・β線・γ線が一気に見つかったのである。やがてそれが出てくる源泉は原子の中にある原子核であるという事が明らかになった。
漱石がロンドン大学のリュッカ-教授の講演会で「原子論」が面白いと言ったのはロンドン留学の頃である。
こうして物理学は、ミクロの世界にドンドン踏み込んでいくのである。
「明暗」 漱石の最後の作品(未完)
朝日新聞に大正5年5月から12月まで連載され、漱石病没の為未完。円満とは言えない夫婦を
軸に、人間の利己主義を追った作品。漱石作品中最長で、特に女性の視点から書かれている唯一の作品。
最後の手記「明暗は長くなるばかり。困った。来年まで続くだろう」
主人公は、友人からポアンカレの「偶然」の話を聞かされている。ポアンカレの説によると「原因が
余りにも複雑すぎてそのことの見当が付かない時に言う言葉。」主人公は自分のうまくいかないのは何故かと自問自答する。そして、ポアンカレの複雑な偶然の極致で「何だかわからない」とつぶやく。漱石はポアンカレを用いることで、主人公の身勝手さを表現したのである。
「明暗」発表の前年、寺田寅彦はポアンカレの「科学と方法」の中から、この偶然を取り上げ雑誌に
発表。漱石はこの事を「明暗」にうまく使ったことが分かる。
「概要」
人間は、ス-パ-知性では無いので、少し要素が込み入ると先を見通せなくなる。自分で気が
付かない小さな原因が積み重なって、重大な結果を招いた時、それを偶然と言ってしまう。凡人には必然が全く見えないし、主人公は全てを偶然として扱ってしまう。そして些細な絡み合いが臨界点に達すると全く局面が変わる。
漱石の時代はニュ-トン力学から来る全能の知性に依存する考え方がまだ支配的であった。
現代科学ではありえないが、当時最先端の科学の考え方を作品に取り入れた漱石は、素晴らしい
人であった。漱石がもう少し生きていて、「明暗」の結末を知りたかった。
「コメント」
私にとっては長い13回であった。理解を超える部分がしばしばで、それをどう筋道をつけるか
大汗。
漱石は科学が好きで、弟子の寺田寅彦の先端情報を作品に取り入れて新しい境地を作ったのは事実であろう。
しかし、この講義のように、無理に漱石と科学を繋ぎ合わせるのには無理がある。漱石の話・科学の話が別々にあって、どこかでこじつけを作っているのは否めない。
しかし、知らない話というのは、面白かったことも事実。話す方も聞く方もご苦労さん。