科学と人間「漱石、近代科学と出会う」 小山 慶太 (早稲田大学教授)
161216⑪「漱石が見た芸術と科学の美」
ケプラ-「宇宙の神秘」→当時の惑星は6個であった。→「ケプラ-の法則」
1596年、ケプラ-(独)はこの本を書いた。コペルニクス(ポ-ランド)の地動説が発表されてから
約50年、当時の主流はまだ天動説であった。この中でケプラ-は、コペルニクスを支持した。当時はまだ望遠鏡が発明されていないので、惑星は肉眼で見える水星~土星までの6個。そして、ケプラ-はなぜ6個なのかと疑問を持った。この6個の惑星の軌道と、その規則性を持っているかの謎解きに挑んだ。それが、この本である。そして、惑星の数は6個なので、その空間は5つ。5という数字に、
彼はあるひらめきを得た。正多面体である。
正多面体 球に次いで、対称性の高い綺麗な図形である。
正多面体とは同一の正多角形で囲まれた立体である。サイコロ→正方形6個・ピラミッド→
正三角形4個。
この正多面体は、5種類しか存在しないことは古代ギリシァの時代から知られていた。
正四角形(ピラミッド)・正6面体(サイコロ)・正8面体・正12面体・正20面体。
この古代から知られている事と、何か関係があるのではないかと彼は閃いたのである。
●そして彼は、宇宙空間は斯の正多面体で形成されていると想像した。何故なら神は、この完璧な
形で宇宙を作ったと思った。そして宇宙の模型を作った、しかし当時の観測結果を照らし合わせる
と少しずれていることが分かった。これを修正して出来たのが、現在でも高校の地学の教科書に
出ている「ケプラ-の法則」である。
●しかしケプラ-の予測したより、軌道は円ではなく太陽を中心にした楕円軌道なのである。そして、
この為に同一速度ではなく、早くなったり遅くなったりしている。この楕円軌道になったり、速度が
変化するのを計算によって力学的に解明したのが、ニュ-トンである。
その著「自然哲学の数学的原理」
「自然の美」
ケプラ-からニュ-トンに到る科学の歴史は、自然の中に美を求めるという、科学の本質を示して
いる。これがその後の科学の歴史を通して、美の追求というのが一貫した流れとなった。
●ポアンカレ(仏の数学者)
其の著「科学と方法」で次のように言っている。「科学者が何故自然を研究するかというと、それは
実益を求めているからではない。自然を研究することに楽しみや喜びを感じるからである。それは
自然の本質が美しいからである。」
→隠れて見えない美しさを掘り出す所に科学研究の神髄があると言っているのだ。
●マクスウェル(英の物理学者)電磁気の理論を解明し、光が電磁波であることを提唱。
彼の作った電磁力学の方程式を見た、ポルズマンという理論物理学者が、ゲ-テの詩の一説を
引用して「この式を作ったのは神でしかありえない、美しすぎる」
●アインシュタイン(ユダヤ系ドイツ人、理論物理学者)
1905年、26歳の時「特殊相対性理論」を発表。その中で有名なE=MC2という式を導いている。
エネルギ-は、質量と速度の二乗に比例するという物。実に美しい式である。しかしこれを美しいと
感じるには、ある程度の知識が必要ではあるが。
「漱石の見た科学の美」
●講演会「道楽と職業」で次のように言っている。
「科学者たちが実験室に籠っていつも仕事をしたり、閉じこもって深い考えに沈んだりして、万事を
等閑に付している有様を見ると、世の中にあれ程自分勝手に生きている人は居ないと思う。それから芸術家もそうなのである。自分が好きな時に好きなものを書いたり作ったりするだけである。科学の研究というのは、糊口をしのぐための職業というよりは、どちらかというと、自分の世界に浸って
道楽的色彩の濃い営みに耽るという性格が強い。」
これは、「三四郎」の野々宮、「吾輩は猫である」の水島寒月が思い出される。
●寺田寅彦
漱石の弟子の寺田寅彦が著書「科学に志す人に」で次のように言っている。
「楽しみに学問をやるのはいけない事かも知れないが、自分は我儘な道楽の為に物理学をかじり
散らしてきたように思う。又「科学者と芸術家」では「漱石先生がかって、科学者と芸術家とはその
職業と思考を完全に一致させうるといわれた事を記憶している。芸術家と科学者がそれぞれの制作と研究に没頭している時の特殊な精神状態は、その間に何らの区別もない。科学者には科学特有の美的教養が備わっている。科学者が抱く美観、美しさに対する感じというのは、壮麗な建築や素晴らしい音楽から生じるものと根本的に通じるものがある。」と述べてその具体例を述べている。
●「夢十夜」 漱石の小説
以上の事を、芸術の側から捉えて、科学研究に通じる美の表現を著した作品である。
これを読むと将に、芸術と科学がどちらも美の追求を好んだという事、又その営みの特徴まで、その共通性を漱石はあぶりだしている。漱石の文学としては、毛色の変わった幻想的な雰囲気の作品である。
「こんな夢を見た」という書き出し。
<概要>
鎌倉時代の仏師運慶。これが明治の世にいて、護国寺の山門で、鑿と槌を振って大きな木から
仁王像を刻んでいる。
仁王が段々に出てくるのを、群衆は驚嘆して見ている。群衆の一人が言う「彼は眉毛や鼻を鑿で作るのではない。それらが木の中に埋まっているのを、掘り出しているだけだ。運慶の目には、既に木の中に仁王の姿が入っているのだ。」と。
そこで、夢の中の漱石は、家に帰って実際に彫ってみる。でも何も出てこない。
普通の人間には、いくら木を彫っても、気の中にある物は何も見えない。所が運慶の透徹した眼力は、木の中に隠れている美を見つけ出して、優れた技で作品に仕上げていくのだと悟る。
この作品で漱石が言いたかったことは、「芸術とは天賦の才能に恵まれた人間が、自然の中に元々隠れ潜んでいる美を取り出す行為なのである。自然の中に隠れ潜んでいる美を取り出すと言うのは、科学がまさにそうである。」
同じようなことは、「草枕」の中でも言っている。「普通の人間は自然を見ても人間社会を見ても、
然るべき美を見つけることは出来ない。才能のある画家は、社会に中に隠し絵のように潜む美を絵筆で描き出す。」
そして、具体的には、19世紀の画家タ-ナ-(英)・幽霊の絵で有名な丸山応挙の例を出している。
「漱石の主張のまとめ」
漱石のいう事を科学に置き換えてみると、ケプラ-の太陽系宇宙の模型がそうである。正多面体を
6個併せて宇宙を創るなどという事は、普通は誰も思いつかない。このきっかけは、ケプラ-の美への追求心である。
「夢十話」で、運慶が木の中から仁王を掘り出したように、科学者たちは自然の中に隠れている真実を彫り上げるのである。この事は「三四郎」の中で、広田先生がこう言っている。「目だけ開けて自然を観察していたって駄目だ。工夫して取り出そうとしないと何も出て来ない。工夫だよ。」
運慶が木の中から鑿と槌を使って仏を掘り出したように、科学者は実験と理論を使って自然の中に
埋もれている真理・法則を掘り出すという事である。美をキ-ワ-ドに芸術と科学をこの様に
対置させて、その特徴を明快に示したことに漱石の慧眼が見て取れる。是非とも「夢十話」を読むことを薦める。
「コメント」
先端の科学者と芸術家とは同じであるという事は分かる。しかし、それは、天賦の才と、能力を持った一握りの人の事。
普通の科学者・芸術家はどうなのか。単なる身過ぎ世過ぎなのか。漱石の自分を高みに置いて、世の中を見ている事は一つの魅力であるが、少し鼻持ちならない。