科学と人間「漱石、近代科学と出会う」 小山 慶太 (早稲田大学教授)
161209⑩「文学研究と創作における科学とのかかわり」
前回はマクスウェルの詩を解釈した「文学論」について触れたが、この文学論の続編の当たり、
やはり文学研究に科学の方法論を応用しようとした作品に「文学評論」がある。元になる話は、東京帝大で講じた18世紀英文学の講義をまとめたものである。今日はこの本を中心に話す。
「科学はいかにしてという事即ちHOWの事を研究するもので、何故という事即ちWHYという質問には応じないものである。」
現代の人々はこの漱石の言葉に「えっ」と思うであろう。例えば「空は何故、青いのだろう」。科学はれを説明する。
→太陽光は7色の光から成っている。その7色の光は、どれも大気中の空気の分子(水蒸気、
ごみ・・・)に当たると、散乱し、あたり一面に広がる。所が、この中で、青い光は、他の光にくらべて
沢山散乱する。この光が人間の目に入る為に空は青く見えるのである。
科学というのはちゃんとWHYに応じているように見える。しかし部分的に応じているが、説明しているのはどうして起きるのかという事で究極の原因究明はしてはいない。この事を漱石は見抜いていた。
そしてこうも言う。
「究極の何故と云う問題が起きると、神の思し召しとか、樹木がそうしたかったとかになってしまう。
あくまで科学の役割というのは、プロセスの中でどういう現象が起きるかという事を記述することで、何故と云う命題を問い詰めていくと、究極には神でも持ってこないと説明できないのである。何故と
聞かれるとBecauseとなる。このBecauseで答えたことに対して更にWHYと聞いて行くと際限がなくなる。最終的な答えは得られない。つまりどこかで、棚上げしなければならないのである。これは神の領域であって、科学の関係せぬ所である」
「この問題に関するニュ-トンの話」
この事を最初にクローズアップしたのは、ニュ-トンである。著書「自然哲学の数学的原理」で、漱石が言ったことをそのまま書いている。漱石は科学者でないのに良くこの事を理解したものである。
ニュ-トンは「重力の法則」を発見した時、当時のデカルト派の人々から厳しい批判を受けた。
「何で重力は働くのかを説明されていないではないか。現象を説明しているが(HOW)、何故(WHY)に対して答えていないではないか。究極の原因が分からないものを持ちだして議論するのはおかしい」と。
そこでニュ-トンは言う
「重力は実際に存在して法則に従って作用し、それによって天体の運動も地上の様々な運動も説明できれば、WHYに答えられなくともいいのではないか。」
つまり、ニュ-トンは重力の原因は科学者には分からないと神に託してしまったのである。しかしこのやり方のお蔭で科学は進歩したのである。HOWを重視すべきで、WHYを追求する事ではないとしたのである。
「文学作品もまたWHYではなくてHOWを記述するものであって、その点において科学と同様で
ある。」
一般的には文学と科学は水と油の様な関係に見られているが、漱石はそうでないと言っている。
「文学評論」にはこの事が色々と例証されながら、延々と続く。途中省略するが、漱石の論理展開は耳触りが良く、文章に騙される。しかし、この説は無理があって、後年漱石自身、失敗を認めることとなる。こうした説は、とにかく文学に、好きな科学主義を持ち込みたいという思いが強くあった為で
あろう。又科学的であるという体裁をまず作りたかったのである。
「私の個人主義」 という講演会での話
科学主義を取り入れるという誰もしなかった自らの試みについて失敗を認め次のように言っている。
「私は私の企てた事業を途中で中止してしまった。私の書いた「文学論」はその記念というより、寧ろ失敗の亡骸である。或いは立派に建設されない内に倒された市街の廃墟のようなものである。」
「漱石が専業作家となる切っ掛け」
東京帝大教授をやりながら、作品を書くという二足の草鞋をはいていた。科学主義を文学に持ち込むという試みをやってみたが、途中で上手くいかないことに気付く。このまま、大学教授として研究を
続けても仕方ないと思ったのではないか。そして、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」の大ヒット。
この二つが専業作家となる背中を押したのであろう。