161028④ニュートンの光学実験と漱石の「文学論」
「ニュ-トンの足跡」
・ニュートンは光の研究でデビュ-した
ニュ-トンはリンゴのエピソ-ドから連想されるように、力学で有名である。所がニュ-トンの偉大な業績というのは力学だけではなく、光の研究の分野でも近代科学の歴史に核心的な足跡を残している。反射望遠鏡を製作した業績で、
ニュ-トンはロンドン王立協会の会員に推薦されている。ニュ-トンが学び、又教授を務めた
ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの礼拝堂にはニュ-トンの像が飾られている。その像が手に持っているのは、
光の実験に使ったガラスのプリズムである。
・実験によってアリストテレスの理論を覆した
アリストテレスによれば
色と言うのは太陽の光・自然光に、物質が其々に持っている闇という要素が混じりあって、混じり具合によって色々な色が
決まる。太陽光・自然光は純粋で混じりけのないものである。古代ギリシアの自然学というのは、実験で確認するのではなくて、頭の中で考えるのである。
ニュ-トンが最初に公にした論文でロンドン王立協会の機関誌「フィロソフィカル・トランズアクション」に掲載したのは
「光に関する考察」である。彼が科学者としてデビュ-したのは、力学よりも光の研究であったのだ。
彼はガラスのプリズムを使った実験で、ギリシアのアリストテレスの「光と色に関する理論」をひっくり返したのである。
ギリシア時代から、ずっと疑いもなく信じられてきたことであったが。
●ニュートンの光に関する考察
太陽光・自然光は純粋なものではない。様々な光線が混じりあったものである。複合体である。ニュ-トンはプリズムを
用いて太陽光の分散の実験を行った。実験の結果、太陽の光は純粋なものではなく、色々な色が混じりあっているものと結論づけた。この結果の論文をロンドン王立協会の機関誌に発表した。
このやり方は、以後の近代科学の進み方のひな型となる。科学の命は、客観性、論理性、再現性であること。これを実証するのが実験なのである。ニュ-トンによって近代科学というのは、こういう物だと示された。
「漱石の文学論の講義録」
漱石は東京帝国大学での英文学の講義を基にして、「文学論」という学術書を出す。その中にたくさんの英文学の作品が引用されている。この論文はニュートンの光学実験、キーツの「レイシア」、漱石の文学論という流れになっている。
<キーツのレイシア>
・ニュートンの光学実験のことはイギリスの詩人 キ-ツの「レイミア」という物語詩の中に取り入れられている。
レイミアとは、蛇の姿をした魔女。美女に変装して、言葉巧みに男を誘惑する女。
この中でキーツはニュ-トンのプリズムによるスペクトル発見に代表される科学の発展が文学の詩情を破壊したと
非難している。
「最近、人間は科学実験という手段で、強引に自然に攻撃を仕掛けている。暴力行為である。自然をあるがままに眺め、そっと観察するというのではなくて、人為的な工夫をあれこれ施して、隠されていた真理を無理やりに掘り起こすこと、
これが科学の実験である」
ゲ-テも「色彩論」で、同じ趣旨でニュ-トンの光学実験のやり方を非難している。
「漱石の科学論」
科学の発展は実験という万能性のある研究方法を手に入れたことから始まる。漱石は斯の科学の特徴を見抜いていた。
「科学者の事物に対する態度は、解剖学的なり。即ち対象物に対する科学者の態度は、破壊的にして自然界に於いて
関連的に存在するものを細かく切り離して、その極致に至らざれば止まず。単に一回目の分解を以て満足せず、100倍・1000倍の鏡を用いて、その目的を達成するのである。複合体に甘んずることなく、これを元素にまで分かつのである。」
「寺田寅彦への手紙」
漱石はロンドン留学中に次の手紙を寺田寅彦に出している。
「今日の新聞で、英国科学振興協会講演会で、ビュッカ-教授の原子論の講演が行われた。とても興味深く、今後はこの分野が盛んになるだろう。私も科学をやりたくなった。」
この当時、原子の存在が科学者の中で大きな話題となっており、見えないものを議論するよりも測定できるエネルギ-を基にして、物質の事を考えるべきという考え方が有力になってきていた。漱石の読んだ論文は、原子の存在を信じる一派の人達のものであった。この後原子の存在が証明され、これが後に、更に原子⇒原子核+電子、原子核⇒陽子+中性子、更には粒子(クオーク)と分解されていく。漱石はこれを見抜いていたのだ。
「現在の素粒子物理学」
此の極限が、現在の素粒子物理学である。そして、遂にはヒックス粒子を発見した。これは質量の源になる粒子で、
半世紀前に存在が予見されていたものである。これを予告していた、ヒックスとアングレ-ブは、ノ-ベル賞を受賞した。
「科学というのは」 講師の考え方
科学とは、花鳥風月を絵に描いたり、写真に撮ったり、詩を作ったりするような風雅なロマンチックなものではない。
受動的なものではない。自然を眺めていても、科学は生まれてこないし、進化しないのである。破壊し解剖しなければ
ならない。自然に攻撃を加えるのである。
「漱石先生の追憶」 寺田虎彦の漱石没後の追想文
「先生は科学に対しては、深い興味を持っていて、特に科学への探求・研究の方法論の話をするのが好きであった。」
「漱石の科学への姿勢のまとめ」
普通の人は、科学に関心があると言っても片々たる事実にしか興味を示さないが、漱石は全く違って方法論に立ち入って
いる。これからも、関心の強さと理解力の深さが見て取れる。
「コメント」
漱石の作品が従来の、又その後の一般文学作品と違った読まれ方をするのが理解できる?。
登場人物の心理描写というより、主人公の鋭い、正確な観察眼及び自虐的な皮肉を含んだ漱石そのものでは
なかろうか。小説と言うより、どこか観察レポ-ト風な感じがする。