250318⑫「大和王権と高句麗」
高句麗は百済との抗争に敗れるが再建。
前回は古代との関係を話したが、今回は高句麗との関係を見ていく。369年に高句麗王・故国原王 が行った南下に対して、百済は撃退する。更に371年には平壌を攻撃して、高句麗王を戦死させた。後を継いだ 小獣林王 は国の立て直しを行った。372年太学 という教育組織を設置したといわれ、同年に仏教が伝来し寺院を建てたとされる。
また323年に律令例を制定したとされる。中国文化を取れ入れて、国を整備し支配力を高めようとした。一方対外政策にも大きな動きがあった。
五胡十六国の中国華北に前秦の成立 →東アジアへの影響
中国では367年に華北の有力王朝であった前秦が華北の統一に成功する。前秦は中国の五胡十六国時代に氐族によって建てられた国。国号は単に秦だが、この秦を滅ぼして起った西秦と後秦がある為、これを前秦と呼んで区別する。これは高句麗など東アジア諸国に大きなインパクトであった。高句麗は翌年の377年に新羅を伴って、外交使節を派遣している。高句麗の狙いは二つあった。一つは統一を成し遂げた前秦を褒め称えて円滑な外交を展開し、前秦が朝鮮半島に介入しないように心掛けた事である。そして一方では新羅を引き連れて行ったということが注目される。新羅が中国に外交使節を派遣したのは初めてであり、それは前秦にとっては今まで来たことの無い異民族が現れたということで、皇帝の偉大さが強調される出来事であった。それゆえ前秦は喜んだ。一方で高句麗にとって新羅を引き連れて行ったことは、新羅が高句麗に従属しているということを、前秦に対して仄めかすものであった。それは高句麗が東アジアの大国であるということを前秦に誇示し、東アジアにおける主導権を確保しようとしたのである。この時の外交から分るように、高句麗は新羅をその傘下に収めていた。当時の朝鮮半島は、東海岸に穢がいて、その南に新興の新羅がいた。
高句麗の南下は朝鮮半島南部では、百済に阻まれてしまったが、東部では順調に拡大していた。
中国統一の動き 前秦と東晋との戦い
さて中国では383年に前秦が中国統一を目指して、東晋への遠征を図った。南北に分裂していた中国を一つに纏めようとする動きである。これを東晋は迎え撃った。これを 淝水の戦い という。前秦が一方的に勝つとのではと予想された戦いは、従属していた異民族の離反によって前秦は惨敗した。この結果この時の皇帝は殺され、前秦は急速に衰え、394年に滅亡した。再び中国の北半分は分裂と混乱の時代となる。
前秦の滅亡による東アジア情勢
この戦いの結果に朝鮮の国々は素早く反応している。高句麗は384年に東晋に使節を派遣している。また高句麗は前秦の東アジアへの影響力低下を見越して、遼東地域を攻撃する。当時遼東地域には鮮卑族の国があった。この国は前秦の力を恐れて西への手出しはしなかったが、前秦の急速な衰えを見越して勢力拡大を図った。そして遼東半島の占領に成功する。中国東北部は前秦という重しが外れたことにより、急速に不穏な情勢となる。
広開土王の登場
こうした国際情勢の中で、故国壌王の時、389年から390年にかけて百済が侵攻を繰り返しながら抗争が続く。そして後を継いだのが広開土王である。その即位の前後に新羅の王族を人質として、新羅の従属を強くしている。
広開土王は石碑によると375年の生まれで、18歳で即位したことになる。故国原王が百済との戦争に敗れ戦死し、小獣林王が建て直し中の誕生であった。そのような状況は広開土王の心に深く刻まれた事であろう。広開土王の意味は、領土を広げ国を安定させた素晴らしい王という意味である。その名の通り国土の拡大に一生をささげた。「三国志記」によれば、その治績は周辺との戦争が殆どを占める。墓は中国吉林省集安市にあり、一辺33mのピラミッド型は将軍塚と呼ばれている。この墓の傍に建てられた石碑こそが、広開土王碑 と言われる。
石碑の理解のための予備知識
この石碑の内容を巡って、これまで様々な議論が交わされてきた。しかし石碑の内容を見る前に、まず石碑そのものがどういうものであるのかというのをきちんと理解することが、正しい理解の為に必要である。そこで石碑について具体的に考える。石碑は広開土王の死後、414年に息子の長寿王が建てた。王の墓の横に立てられ、生前の治績とその陵墓を管理する墓守について記した石碑である。その生前の活躍から広開土王の活動が分る。内容は三つの部分に分かれる。一つ目は高句麗の歴史。神話から広開土王の死去までを簡略に記す。二つ目は広開土王の功績について。
王による領土の拡大を年代ごとに記す。この部分に倭の動向が繰り返し記されており、その内容を巡って議論が交わされてきた。そして三つ目は広開土王の領土の繁栄についてである。王の墓を守る守墓人にとよばれる人々の名前を列挙している。石碑はあくまでも広開土王の墓を管理する為、そして広開土王の業績をほめたたえる為に建てられたのである。
広開土王碑の再発見 拓本ブーム
さて石碑は高句麗が滅んで、長い間に忘れられてしまう。そして再び日の目を見るのが、1880年である。清の末期に注目を集めることになる。当時は知識人の間で石碑の拓本収集が流行っていたので、この拓本も例外ではなかった。
即ち広開土王碑は大きなものであり、それだけでも知識人にとっては珍しいもので垂涎の的であった。その為拓本の需要が発生する。そうすると拓本職人は碑に拓本を取りに行くが、きわめて巨大なので一日や二日では出来ない。その事で碑の近くに家を構えて作業をすることになる。彼らは繰り返し拓本を取る。しかし長く忘れられていた石碑は、保存状態が良くなかった。例えば石碑に蔦が絡みついて、取り除くのが極めて困難であった。職人はそれを解決するために、それを燃やした。無理やりはがそうとすると、石碑の表面が壊れてしまうので。しかしこのように燃やすとことは、石碑の表面を破壊することでもあった。劣化が進んだので、文字を読み取り易くするために、字の部分に石灰を塗ることを行った。その為広開土王碑の拓本は二種類ある。一つは石灰を塗る以前に取られた原石拓本と、もう一つは石灰を塗った後の拓本で石灰拓本という。原石拓本と石灰拓本と比べると、確かに石灰拓本の方が読み易い。但しもともとがボロボロになっている所に石灰を塗るのは問題を残した。また石灰を塗っても読みにくい事には変わりはない。そこで更に拓本ではないが、拓本を横において、それらを見ながら書き写すものが作られた。これはあくまで拓本ではなくて、書き写したものである。即ち書き写した人の考え方や主観が入り込むので、その正確性については劣る。
さて1880年と言えば、すでに日本は明治時代である。当時日本は清との間の外交は行われており、日本から清に派遣された参謀本部の酒匂景信がこの存在を知り、書き写したものを持ち帰った。軍人なので拓本などについて学術的知識はなかったが、その為このような分かり易いもの 双鉤加墨本 を手にしたのではないか。
解読の問題点
しかしこの本は読み易い故に問題を引き起こす。それは倭が朝鮮半島に出兵し、百済と新羅を降伏させたと読み取れる表記がある。そしてそれが朝鮮半島植民地化正当化に利用される側面である。その後第二次世界大戦の後、日本が民主化された後、韓国の研究者によってこの問題が上げられる。彼は参謀本部が石碑に石灰を塗り、日本に都合の良いように碑文を改竄したという説を唱えた。この考えは学会に衝撃を与えた。そしてそれは拓本研究を大きく前進させた。現在では石灰塗布以前の原石拓本の存在がかなり明らかになり、その研究が進んでいる。そして石灰は拓本職人が塗布したものであり、参謀本部ではないことが明らかになっている。しかしそもそも石碑に手が加えられているということに着目したことは大きな一歩だったといえる。
碑文の内容 政治性がある。
さてそうした中で碑文の内容を考える。碑文の中に広開土王が各地に侵攻したと記されている。その相手は、倭、契丹、粛慎、安羅・伽耶の一国、百済、東扶余など様々な勢力が挙げられている。一方「三国志記」の広開土王のくだりを読むと、こちらでも広開土王が毎年のように戦いに明け暮れていたことが記されている。しかしその相手は百済や契丹そして中国の後燕と争ったとされている。倭や粛慎、安羅、東扶余などは記されていない。この碑文と、歴史書の内容が違うという問題がある。特に「三国志記」では、頻繁に記録されている、中国の東燕という王朝との抗争を、碑文では一切記していない。これは石碑を建てる際に中国との関係を考慮し、抗争を意図的に削除したことが考えられる。即ち内容には、政治的判断が強く含まれる可能性がある。そして碑文の中で最も注目を集めたのが、391年に倭国が百済、新羅を打ち破り臣民としたという記述である。碑文の中では百済の事を 百残 と記している。この 残 は、盗賊の 賊 という意味で、忌々しい奴という意味である。高句麗から見た百済がどのように捉えられていたかを読み取ることができる。
さて古くは倭が百済や新羅を破り、臣民とした記述はそのまま真実であると考えられていた。しかし前述のように石碑は政治的判断を含む文章である。碑文は広開土王を褒め称える目的で建てられていることに再度注目せねばならない。
石碑において、倭が繰り返し高句麗を攻撃してくる敵として描かれている。そしてその倭を打ち破り、払い除けることで、広開土王の功績を褒め称えているのである。そのような文脈で考えると、石碑で倭を大きく書くことで、それを打ち破る広開土王は更に偉大であると描くことが出来る。元々、石碑の中では、百済や新羅は高句麗の属民で、従属していたと書かれている。所が、倭国がやってきて彼らを臣民とした。高句麗は軍を出して、彼らを救出し両国を高句麗の傘下に置いた。そういう事が述べられている。この文脈から見ると、そもそも、百済が元々高句麗に従属していた事実はないにも関わらず、石碑にはそう書いてある。それは何故なのかというと、元々従属していたのが倭国に奪われたので、それを取り戻すという正当な行為であるという文脈である。この様に石碑は事実を歪めているのである。ではどこまで事実として考えればよいのか。倭国は百済、新羅を巻き込んで、高句麗と衝突した事は事実であろう。しかし倭が朝鮮半島南部を支配下に置いたかは別問題である。そもそも倭国が百済や新羅を臣民として支配していたならば、それを支えるために膨大な軍隊と経済力が必要である。当時の倭が大軍を率いて朝鮮半島に遠征して、植民地支配を実現することは不可能であったろう。そのような国力は無かった。倭国が朝鮮半島に軍事介入した理由は、鉄の入手である。土地の支配ではない。
高句麗と倭国の抗争
さてこれ以外の興味あることを幾つかピックアップしてみたいと思う。400年に新羅に侵攻した倭を、高句麗は5万で攻撃したとする。高句麗軍は騎兵を有していた。これは壁画にも記されている。また高句麗の埴輪にも騎馬の兵士が描かれている。一方倭には馬はいない。「魏志倭人伝」には、その地には牛、馬、虎、豹、羊はいないとしていることからも分かる。馬は単なる家畜ではない。突破力や破壊力の有る兵器である。騎兵と初めて戦った倭軍は惨敗する。高句麗との戦いは馬との戦いであった。その結果、倭は馬の導入を強く意識するようになる。5世紀になると、馬の育成というのが長野や群馬で行われるようになる。その背後には、この惨敗がある。またその後404年には、倭軍は帯方郡の境に侵入したという記事がある。この時は舟を連ねてと記されており、水軍での侵攻であったようである。何故水軍だったのか。
それは騎馬との戦いを避けたのかもしれない。石碑の中に、倭は九ケ所にも現れる。石碑で繰り返し現れる存在は他にない。高句麗が倭国を最大の敵として強く意識していたことは間違いない。その政治的文脈には注意して、そこには騙されないようにすれば史実に迫る事も出来るだろう。倭は百済や安羅と連携して朝鮮半島に出兵する軍事力を持ち、高句麗に介入してくる存在だったのである。但しそこでの対立の基軸は、高句麗と百済の対立である。倭国は百済を支援する立場であり、高句麗対倭国というのが中核ではない。それは5世紀にまた、高句麗、百済、倭国の抗争として繋がっていくことになる。
「コメント」
何時から倭国で鉄生産が出来るようになったのか。そうすれば朝鮮半島に行く必要がなくなるのに。他の理由が出てくるのはこの後。