250311⑪「七支刀の歴史的意義」
今回は百済から倭国に送られたと言われる七支刀について中心に考える。先ずそもそも百済とは何時、どのようにして建国したのかという所から考える。
朝鮮半島およびその周辺の諸民族
「三国志東夷伝」によれば、3世紀には朝鮮半島やその周辺には、扶余、高句麗、東沃沮、挹婁、穢、韓が存在したと書かれている。そうした諸民族は4世紀も同じ様に存続し続けた訳ではなく、淘汰されながら変化する。「晋書」には、扶余、馬韓、辰韓、粛慎の四ヶ国が存在したと書かれている。粛慎といえば、挹婁に該当すると考えられるので、扶余、馬韓、辰韓、弁韓については言及がない。そして挹婁が粛慎として記されている。東沃沮や穢は記されなくなっている。また高句麗は滅亡したのではないが、「晋書」には記されなくなっている。必ずしも中国の歴史書に記録が残っていないから、滅亡したり消え去ったという訳ではないが、それでも朝鮮半島の動向を考える上で一つの手掛りである。
高句麗の建国 、南下、韓の国々の対抗策 百済国
さて高句麗の建国について考えると、313年~314年にかけて高句麗は楽浪郡と帯方郡を滅ぼす。前回述べた様に、楽浪郡や帯方郡には朝鮮半島に土着した中国系の人々が官僚として多く住んでいたので、その人々の行き場はどうなったのか。恐らく彼らの多くは高句麗に見込まれて、その地の文書行政だけでなく統治の技術を生かしたであろう。
一方340年代に前燕の侵攻を受けた高句麗は、西への領土拡大の限界にぶつかる。その為に朝鮮半島の南部へと向かう。即ち韓の人々は高句麗の南下という圧力にさらされる。それまでは小さな国々の集団であった韓の地域は、高句麗に対抗できる国を形成する動きを始める。特に楽浪郡帯方郡に近い馬韓の地では、それが顕著にみられる。
百済国
馬韓の地には50ヶ国以上の国が記されているが、その中に百済国という国がある。これは漢城という現在のソウルの近くの地域を中心とした小さな国だったと考えられる。ただ百済国の土地は朝鮮半島全体からみると、西側の中央寄りに位置していて、帯方郡からそれほど離れていない。つまり高句麗が帯方郡を滅ぼして更に南下の動きを見せた時に、先ず最初に危機にさらされるのがこの百済国なのである。それは百済国が生き残るためにより強い国を作ろうとする
モチベ-ションとなっていく。その結果、この百済国が成長して百済になった。但しここで注意しなければならないのは、馬韓の50ヶ国が全て百済国のもとに統合されて百済になったという訳ではない。恐らく百済国の周辺の国々を巻き込んで百済という新しい国を形成したであろう。しかしその動きに組み込まれることなく、小さな国を維持していたものもいた。この様に百済は馬韓地域の北の方の国々を統合して出来上がった国である。
それに対して、高句麗の南下の圧力を百済より受けにくい、南の小さい国々は体制を維持していた。
さて百済に関して、「三国史記」という歴史書の中に建国神話が残されている。その建国神話では次の様に語られている。
北扶余の出自を持ちながら、同地から追われて逃れてきた鄒牟という人物がいた。
鄒牟の別名が朱蒙であり、高句麗の初代國王である。彼には二人の息子がいた。二人は南に旅立ち、BC18年に漢城に辿り着きそこに城を作り都とした。兄は更に先に進み現在の仁川に移住した。兄は早く亡くなり弟は兄の国も含んで自分の国を定め建国したと伝わる。この親子兄弟の物語はいわゆる貴種流離譚と呼ばれるものであり、神話における普遍的な物語の構造として位置づけられている。それではこの神話はどのように考えれば良いのか。
王の出自は扶余である!!!!
百済王が扶余の出自であるとされているのは非常に興味深いものがある。扶余というのは高句麗の更に北にある異民族で、百済との接点は考えにくい事である。しかし百済王は自分の出自について早い段階から扶余と繋がっていることを意識していた痕跡がある。それは百済王が中国と外交を行う時に、自分の一族の姓を扶余、或いは省略して 余 と名乗っていたからである。それは初めて中国に外交使節を派遣したことを記す「晋書」の372年の所に、百済王の名は余句 といい、これを柵封したという記事がある。4世紀後半の372年の時点で百済王は 余 という氏を名乗っていたのである。この 余 という姓は扶余伝来である事は確実である。
百済の建国が4世紀の中頃とすると、建国から間もなく自分の出自が扶余にあるということを主張していたことは間違いない。但し先程述べた様に百済と扶余の間に繋がりを見付けることはとても難しい。位置的に見て、百済が扶余の始祖とは見なし難い。そこでもう一度建国神話に立ち戻って読み直してみると、初代王の父 鄒牟 が高句麗の初代王 朱蒙 と同一人物であるとされるということに注目される。6世紀中頃の国際情勢を考えてみると、百済は高句麗の南下の圧力を受けていた。その危機感から建国したという状況にあった。つまり高句麗と百済は対立していた訳である。ただしその力関係は高句麗の方が圧倒的であり、百済は建国したばかりである。そうした中で百済が高句麗に対して対抗するにはどうすればよいか。そうした時に自分たちは劣勢なのではない。高句麗と対等な存在であると主張する。どう主張するのか。軍事的パワ-ではそんな主張は出来ない。そうすると神話の中にそれを位置づけることをやったのではないか。
後発の国として高句麗に後れを取っていた百済は、扶余出自の高句麗に対して対等を主張する為にも、建国神話で出自を扶余と主張したのであろう。そうした中で建国した百済は高句麗からの圧力にさらされることになる。
高句麗と百済の抗争
369年の9月、高句麗は百済に向かって軍を進める。何故この時期だったかというと、その5ケ月前の369年4月に東晋が前燕に対して攻勢をかけている。高句麗の西にあって高句麗の潜在的な脅威であった前燕は、東晋との争いに関わらざるを得なくなる。それは高句麗が南下政策を推し進めても、前燕がそこに介入してくることはないチャンスと受け止めたのである。これに対して高句麗の南下を察知した百済は、漢城の北で迎え撃ち撃退に成功する。更に2年後の371年10月には、今度は百済が北上して平壌を攻撃する。この戦いで高句麗王は戦死し、それは百済と高句麗の対立を決定的なものとし、以後長く続く。なお、当時の記録には王は流矢で死んだとされていたが、100年後に百済が中国に送った外交文書では、百済は王を捕虜とし斬首したとある。よくある情報の書き換えである。
百済の国際進出 日本との関り 七支刀
さてその後の372年1月に百済は東晋に初めて外交使節を派遣しており、東晋は百済を柵封した。高句麗との戦いに勝った百済は余勢をかって、東アジアの国際社会に本格的に進出した。そしてこの一連の情勢に関わる資料が日本に残されている。それが七支刀である。刀身に6本の枝分かれした刀をつけた形状は有名である。長さ65.6cm、幅2.2cm。
六叉の鉾 とよばれ、当初は七支刀とは呼ばれていない。七支刀は石上神宮の神刀として長く保管されており、明治6年当時の大宮司が観察した結果、刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見した。ただし発見されてすぐ世に知られた訳ではない。明治25年東京帝国大学教授の星野恒が「七支刀」という論文発表して注目を集めた。星野はその論文の中で、「日本書紀」の記事と発見した七支刀が同一であると指摘し、それが現在まで七支刀と呼ばれるきっかけとなった。さて実物を見ると刀身に銘文が刻まれている。それは象嵌であるが、剥落があり特定できない文字がある。不明の文字がある為細部で解釈が分かれているが、おおよその内容は推定されている。それを紹介すると次の様になる。
表面は 年号不詳の四年九月十一日丙牛の日の真昼に打ち上げた鉄で刀を作った。この刀を持てば武器による禍を避けることが出来、身分の高い王が持つにふさわしいものである。誰それが作ったと記されている。
裏面には刀を作る経緯が記されている。これまでこの様な刀はなかった。百済王の世子は加護を受けて生きてきた。そして倭王の為に刀を作らせた。百済と倭の関係が後世まで伝えられることを願う。
この銘文の問題点は列挙すると
・冒頭の年号は何時か
・百済と倭国の外交はどのようなものか
・人名が記されているが誰に該当するのか
・日本書紀の記事と銘文との整合性
まず年号について考える。実は七支刀の一文字は 泰 と読める。ただこの様に読んだ時に該当する年号が見つからない。この為中国の年号ではなく百済の年号ではないかなどと色々な説があるが、実は 泰 という文字は、太い の太 という文字と互換性がある。中国の史料の中でも安泰の 泰 と、太い の 太 を置き換えて使っている例が幾つかある。そのように考えると東晋で366年~371年の間に用いられた 太和 という年号がある。この 太和 という年号に基づけば泰和4年は369年となる。まさに百済が高句麗と戦った年である。一方銘文の内容から七支刀は百済から倭に送られたものである。この点について両国の関係は三つの説に分かれている。
・百済が倭国に授けたとするもので、百済を上位とする見方である。
・百済が倭国に献上したとして、倭国が上位と見なす。
・対等な贈り物とであるとして、対等である。
実際のところどう考えたらよいのか。当時の倭国は、馬韓北方で距離の離れている百済を、実力で従えるというのは極めて考えにくい。また建国間もない百済が、倭国の上位に立つというのも考えにくい。そうすると高句麗南下に対して、百済と倭国の利害が一致して対等な同盟の証として、百済から倭国に送られたものと理解するのが穏当であろう。また銘文には 百済王 世子 と 倭王 旨 と名前が見える。この倭王 旨 という人物については、これを「古事記」「日本書紀」に照らし合わせると該当する天皇名は見当たらない。様々な説があるが「古事記」「日本書紀の名前がその当時の人の名前として残っているかどうかは慎重に考えねばならない。記録に残っていない大王がいたということも想定すべきで
あろう。
「日本書紀」「古事記」と七支刀
また「日本書紀」では、神功皇后摂政46年3月と47年4月に、百済との外交の始まりに関する記事がある。その内容は百済の王が日本との外交を願い使者を派遣した。所が新羅が百済の外交を妨害したため、日本は新羅を攻撃した。その事を百済が感謝して献上したのが七支刀だったとされている、七支刀に関する記事は神功皇后摂政52年にあり、これは単純に西暦に換算すると252年になる。しかし神功皇后周辺の「日本書紀」の年代は120年ずれているという指摘がある。その指摘に則ると七支刀が作られた実年代は372年となる。七支刀の銘文の 太和4年 369年と近い年代である。この様に考えると「日本書紀」に記されている七支刀の年代というのも事実との関りが気になる所であるが、
しかし一方「日本書紀」の中では新羅との外交の問題を長々と述べており、高句麗に関することは
一言も触れていない。この様な事を考えるとフィクションと見做して良いであろう。
倭国と東アジア情勢
一方「古事記」では応神天皇の時に、百済から太刀と鏡が送られたとしている。この太刀というのは七支刀を指すと考えられている。この様に4世紀後半倭国と百済は、対等な同盟関係を作り上げたと考えられる。その切っ掛けは中国の南北対立の影響を受けて、高句麗が南下した事である。それは高句麗への対抗意識を強く持つ百済が建国し、軍事衝突を起こすまでに至る。そして倭国にとっても重要な問題である。倭国は朝鮮半島に鉄を依存していた。それは伽耶の地が多かったが、そこだけでなく百済からの鉄も大きなものであった。朝鮮半島に鉄を依存する倭国が高句麗南下を危険視したことは当然のことであり、それを防ぐ為に百済を支援したということである。そして対高句麗軍事協力は、369年~372年まで続き、それを記念して贈られたのが七支刀なのであろう。つまり七支刀は軍事同盟の象徴だったのである。
そして266年以降東アジアの中で、姿を見せなくなっていた倭国は再び東アジアに現れたのである。
そして百済は倭国との同盟だけでなく、中国の南の東晋に朝貢し柵封を受けるなど積極的な外交活動を行っている。
これによって倭国と百済の同盟は確立しそれは7世紀まで形を変えながら続いていく。
「コメント」
石上神宮に行くか。そう思って見るとまた面白い。そういう背景があったのだ。