250304⑩「文字の持つ意味」

日本古代において文字と言えばこれは漢字に当たるので、文字は中国の文字ということになる。中国からどのように伝わって来たのかということが問題になる。当時は直接中国から日本列島にというルートではなくて、朝鮮半島を経由してのル-トであった。

 前漢の朝鮮四郡の設置 BC108年 中国文化の朝鮮への流入

その中でも大きなきっかけになったと思われるのが、BC108年に起った前漢の武帝が朝鮮半島に軍事行動を起こし、四つの郡を設置したいわゆる朝鮮四郡と言われるものである。楽浪郡・真番(しんばん)(ぐん)臨屯(りんとん)(ぐん)玄菟(げんと)(ぐん)。これをきっかけとして中国文化の流入が進んでいく。四つの郡の内、楽浪郡以外は、数十年で衰退してしまった。BC1世紀には楽浪郡、中心地は現在の平壌(ぴょんやん)であるが、そこに中国からの支配は集中する。楽浪郡には中国から役人が赴任し、その一部が土着してしまう。そうした

一族として楽浪王氏として知られている。彼らは行政を行う。どういう事をやるかというと、文章を使って行政を進める。建物も中国風にして瓦葺とする。当時の朝鮮には瓦はなかった。建物や瓦に文字が書かれていた。やがて行政だけでなく日常的にも文字が使われるようになる。実際に楽浪郡で文字が行政で使われていた証拠として、BC45年に貞柏洞 364 号墳で戸籍などが発見されている。また「論語」を記した竹簡(ちっかん)が発見されている。こちらは行政上使うというより、役人が儒教を学ぶためのものであろう。この様に楽浪郡辺りを中心に文書行政を行う拠点が出現した。そして楽浪郡にやってくる朝鮮半島南部の韓の人々が、それに接することで文字を学ぶ機会が出てきた。たとえばBC1世紀から1世紀にかけて、朝鮮半島南部の慶尚南道に()戸里(ほり)遺跡がある。この遺跡には様々な興味深いものが出土しているが、筆と刀がある。これは筆で木簡に文字を書く、その文字を間違えた時に刀で削って書き直すのである。

 文字が広まっていく様子 楽浪郡→朝鮮半島南部→倭

文字がどのように広まっていくのかというのを判断する痕跡というのは様々である。例えば鏡による文字が鋳造され、それが出土したということで、普段から文字を見ていたということになる。しかしその場合はその文字をちゃんと認識していたかは分からない。模様として認識していた可能性もある。しかし字を書く道具の筆、それを修正する刀を使っているということは、文字を書くという行為が少なくともこの()戸里(ほり)遺跡の周辺には広まっていたことは確認できる。そして楽浪郡と朝鮮半島南部の韓の地域の交流の結果であるということも言える。こうした文字の伝播というのは、朝鮮半島南部だけでなく素から海を越えて日本列島にも伝わっていったと考えられる。それはどうやって伝わっていったかというと、直接に楽浪郡に行って楽浪郡から何らかの文字の書いてある品物などを手にしたということもあるだろう。また楽浪郡と直接ではなしに、朝鮮半島南部の国潜亨が文字文化を利用し、それが日本列島に伝わったということも考えられる。

倭人が最初に目にした漢字はどのようなものであったか。恐らく品物、例えば貨幣とか鏡に鋳込まれた文字などではなかろうか。貨幣では西暦14年~20年に作られた貨銭という貨幣があるが、それが日本列島から100~200枚程度見つかっている。その数では現在の貨幣の役割を果たすことは出来ない。それは何を意味しているのかと言うと、恐らく倭人が今まで理解できなかった何かと交換できる特別なもの、そうした特殊なものとして記憶されていた。実際貨銭と呼ばれる貨幣は、一枚だけ丁寧に埋められたりすることがある。貨幣に文字が刻まれるということは、倭人にとって特殊なものと見たのであろう、この様に最初は漢字を文字として認識できていなかったであろう。しかし早い段階で漢字は情報伝達を果たすものだと理解されて行ったのではないか。

漢委奴国王 の金印

特にそれをはっきり窺わせるのが、西暦57年 後漢書 東夷伝に 建武中元二年、倭奴國、貢を奉じて朝貢す、使人自ら大夫と称す、倭国は極南の界なり、光武、印綬を以て賜う とある。

金印には 漢委奴国王 という文字が刻まれていた。それは奴国王にとっては自分の身分を表す重要なものであり、そこに何が書いてあるのか理解できないということは考えられない。また57年に奴国から派遣された使者、金印を受け取った使者は自分のことを大夫であると自称したと中国の記録に残っている。それは中国における大夫というのが、倭国においては王の代理となる豪族を意味する言葉だということを理解しているのである。つまり奴国の使者は中国文化を一定程度理解して自分の立場を中国人に説明しているということになる。そうした知識を持っている人であれば、当然漢字に関わる知識も持っていたと考えられる。この様に急速に日本列島の政治に関与する、特に中国との交渉に関わる人々の間で理解が進んでいった。特に「魏志倭人伝」になると、帯方郡との外交において文字が使われていたことがはっきりしている。例えば「魏志倭人伝」は王が使いを遣わして、魏の都である洛陽や帯方郡そして朝鮮半島南部の韓に使者を派遣する時、或いは帯方郡の使者が倭国にやってきた時、港で持ってきた物を検査し文書を確認して王の所に報告したと記されている。

 卑弥呼 親魏倭王に柵封される

ここでは帯方郡から倭の女王 卑弥呼 に送られたということがはっきり記されている。卑弥呼が読めたかどうかは分からないが、まず卑弥呼の所に文字か届けられることが重要であり、その内容を卑弥呼に説明する人がいることは確かである。特に卑弥呼が最初に外交使節を派遣して、親魏倭王に柵封された時に魏の皇帝から詔が送られている。この詔は帯方郡を通じて卑弥呼に送られたということがはっきり書いてある。このように中国からの外交文書が卑弥呼に送られる。その時それをチェックする仕組みが出来上がっていた。これは文字を理解していたということである。またこの場合には文字を書いたのは中国側であって、倭人はそれを読む側である。一般的には読むよりは書く方が難しい。実は親魏倭王に柵封された時に、卑弥呼は柵封に対するお礼を述べている。それは「魏志倭人伝」では、使いを派遣して上表して詔に感謝したと記されている。上表というのは外交上の手紙を差し上げるという意味で、古語では手紙を書いたということになる。卑弥呼の周辺に文字を書くことのできる人間がいたことが分かる。しかしここに書いてあることをそのまま理解すれば、3世紀の倭において文字を読むばかりでなく書くことによって外交意志を伝達していたことになる。それが出来たのはその次の問題になる。例えば朝鮮半島と頻繁に往来する人、或いは楽浪郡や帯方郡との交流を行っている役人。そういった人々であったろう。或いは楽浪郡からや帯方郡から倭国にやって来た人が、代筆したかもしれない。いずれにしても倭国の外交の意思、卑弥呼の外交意志が文字として記されたということに間違いはない。

 邪馬台国連合と狗奴国との戦争

他にも「魏志倭人伝」では邪馬台国連合と()()国の戦争の際に、帯方郡は卑弥呼を支援する。その際に帯方郡は激を作って、周囲の国々に告知したのである。激というのは今でも激を飛ばすというフレーズで残っているが、ここでは相手を説得する文書の意味である。つまり邪馬台国連合と狗奴国との戦争が起こった時に、それ以外の国々に激を送ると言うことを行ったのである。この場合、激を受けた方はその意味を理解できたがどうかは定かではない。しかし激を齎した使者が相手に激を渡すに際し、その内容を口頭で説明することはあっただろう。それで理解を求めたであろう。重要なのは漢字が記された文書が届けられるということは、心理的効果が期待されたのであろう。そこに文字が書かれていることで、それは重要な事が書かれている。それが口頭で説明されることによって、ただ単に聞くだけでなく効果を発揮することが行われているのである。

 古墳時代の文字の痕跡

この様に「魏志倭人伝」に記されているいくつかの文字を使った痕跡を読み取っていくと、邪馬台国の段階で文字の使用というのは、もうすでに始まっていたと考えて良い。勿論構成員全体が用いることが出来たわけではない。限られた人々である。しかし政治・外交の場において文字は確実に機能していた。そして弥生時代が終わり古墳時代になる、3世紀以降になると、文字を記したと思われる遺物が増えてくる。いくつかの実例をあげる。

     長野県 根束(ねつか)遺跡

3世紀後半の長野県 根束遺跡がある。ここから 大 という文字の 刻書(こくしょ)土器の礫片(れきへん)が見つかった。この遺物で注目されるのは、書き順である。しかし刻書というのは、年度に堅い棒で文字をひっかくのである。書き順の早いものは後の書き順に潰されてしまうので、書き順を復元することが出来る。この場合この根束遺跡で刻書を見てみると、先ず 人 を書いた後で最後に横棒を書いたと分かる。現代とは違う書き順である。そして同じ様な書き順は朝鮮半島でも確認できる。この様に東アジアでの漢字文化というのは少なくとも日本列島と朝鮮半島ではある程度共有されていたと考えられる。特に長野県の根束遺跡で朝鮮半島との交流があったというのはどう考えたらよいのか。

実はこの根束遺跡からは他にも朝鮮半島と関係があると思われる遺物が見つかっている。それは渦巻飾りを持つ鉄剣である。この渦巻飾りというのは当時の日本列島では製作するのが困難な装飾品で、朝鮮半島の技術が用いられたと考えられている。特に伽耶の地域で特徴的と言われる。即ち渦巻飾りを持つ鉄剣が見つかったということは、根束遺跡に関わった長野の人々が伽耶と交流していたということの現われである。そして伽耶と交流していた人々は、文字も伽耶の人々から学び共有するようになったのであろう。

   三重県 片部(かたべ)遺跡

これは丸底土器の(こう)縁部(えんぶ)に 田 と書かれた土器が出土した。残念ながら墨で書かれているのが薄れてしまっている

田 ではないという意見もある。同じく三重県の貝塚遺跡でも 田 を書いたものが見つかっている。三重県は安濃津(あのうつ)と呼ばれ 博多、坊津と並んで日本三津(さんしん)と呼ばれた港があり、この港を介して活発な交流が行われていたと言われる

文字の伝播も、そうした交流の結果なのであろう。

 

この様に土器に記された文字は一文字のものが殆どである。この為記された文字がどのような意味で書かれているかを解釈するのは困難である。呪術的宗教的意味で記されているのかもしれない。最初に接触した時に文字というのは何らか特殊なものであると思った。それを自分たちの日常の土器とかに用いたということかも知れない。

   天理市 東大寺古墳 太刀

さて一方で文章という面ではどのように考えられるであろうか。奈良県天理市にある4世紀中頃の古墳の東大寺古墳がある。ここから金で象嵌された太刀が出土している。その太刀には 中平 という年号の5月に優れた太刀を作った。

この刀は魔よけの効能を持っている。 という内容の文章が記されている。ここで注目すべきは、中平 という年号である。この年号は後漢の185~189年まで、即ち2世紀後半ということになる。丁度卑弥呼が倭国の乱を終えて、即位した頃と考えられる。そして当時の象嵌の技術を考えると、この刀自体は中国で作られたと考えて良い。そこで2世紀の中国の刀が4世紀の古墳から出土した意味が問われる。年号はその王権を象徴するもので、例えば魏が後漢の年号の刀を授けるというのはあり得ない。可能性としては楽浪郡との交流の中で、後漢から授かったと考えることも出来る。そうであるとすれば、この太刀は2世紀の終わりに日本列島に齎されて、4世紀の中頃に古墳の魔よけとして埋葬されるまで大切に伝えられていたことになる。200年にわたって一つの品物が、大切に伝えられてきたというのは例を見ない事であり、この太刀が特別なものとして扱われていたことが分かる。また文字は書かれて内容と共に、何に書かれているかも重要である。現代人は文字を書く時に紙をイメージするが、当時は紙が当たり前ではない。木簡や竹簡のように、木や竹の札に記すということである。

また大切な内容のものは、金属に書き記して内容が失われないようにする工夫もある。その中でこの太刀は鉄に文章を記すということで、大切に伝わっていったのであろう。そして鉄などに文章が記されるというのは、日本において重要な意味を持つものとしていくつか現れて来る。

 さきたま古墳群 稲荷山古墳  熊本 江田山古墳

稲荷山古墳  から出土した鉄剣、或いは熊本県の 江田山古墳から出土した鉄剣に記された文章などがあげられる。

  七支刀

また4世紀後半に百済から贈られた七支刀も文章が刻まれた刀である。それについては、次の回で話す。

 倭の五王の外交

当時の大和王権内に、そこに刻まれた内容を理解する人物がいたことは間違いない。残念ながら3世紀後半から4世紀にかけて、日本列島内における文字の痕跡は断片的であり、その実像を知るのは困難である。しかし5世紀になると文字文化が発展してその詳細を知ることが出来るようになる。例えば中國資料の 「宋書倭国伝」によれば、倭の五王の最初の人物である 讃 は宗に外交使節を派遣し、皇帝から柵封の詔を授かっている。これは宗から与えられた詔の文書を理解する人が大和王権の中にいたことを示している。この時の外交は  讃 の方からまず宗へ働きかけて、その結果として宗から柵封が行われている。そして詔の中で、 讃 に対して 倭 讃 と呼んでいる。これは 讃 が自分の名前は讃 であると名乗っているから中国側が、讃 を倭国王に任命するということが行われたのである。倭讃 は外交使節を派遣した時に外交文書を持参させている可能性が高い。外交だけではない。5世紀半ばに千葉県稲荷台古墳一号墳から、 王が賜う といった文章が刻まれた鉄剣が見つかっている。この王というのは大王 のことを指すと考えられる。

ここで大王と地方豪族の関係、或いは大王が千葉に中央の豪族を派遣してそこで中央の豪族が亡くなって葬られた可能性も言われている。いずれにせよ文字を持った人、文字を与えられた人というのがいて、それが古墳の副葬品として太刀を納めたのである。この様に外交や国内支配の手段、呪術など文字の役割は多岐にわたっている。そして5世紀に文字文化が活性化する背景には、又断片的にしか確認できない4世紀においても、文字文化が受け継がれていたことを認識しなければならない。まさに初期の大和王権の頃にはそうした文字文化が、脈々と受け継がれていたのである。

 

「コメント」

仏教伝来のように、いつ・何が というのではなく 日常的にじわじわとしみ込んでいったのだ。