250225⑨「鉄と古代権力」

今回は鉄の問題に注目する。鉄は現代まで人類の歴史の中で重要な役割を果たしてきた。埋蔵量も多いので知られている。ただ基本的には地下に埋もれている金属なので、発見するのは困難であった。その為、人類が初めて使った鉄は地下から採掘された鉄ではなくて、隕石として落ちてきたものとされている。天から降ってきたというのは、宗教的なものも見出され、鉄の利用が始まる。

 製鉄の起源 ヒッタイト 東アジアに広がる

その後人類が鉄を作り出すのが始まったのは、アナトリア半島(トルコの北側)といわれる。従来はBC1400年にヒッタイトが、その技術を生み出しそれを独占したとされていたが、現在ではそうした独占はなかったのではとされる。鉄の加工技術はアナトリア半島から始まり、その周辺に広まっていく。一番直接的には古代エジプトなどとなる。しかしそれだけではなく、遊牧民によって東に広まっていく。BC1000年頃には東北アジアで鉄器の使用が確認されており、アジアの東まで400年のスピ-ドであっという間に広がったことが分かる。

 朝鮮半島

実は中国への伝播というのはその後の事であって、BC700年になって中国で鉄器が普及すると考えられている。この様な伝わり方をした鉄は、朝鮮半島にも伝わる。現在の北朝鮮の地域で 明刀銭(めいとうせん)  と呼ばれる鉄製の銭と斧が見つかっており、これが衛氏朝鮮、これがBC200年頃と考えられている。ただそれは朝鮮半島で作り出されたものではなく、中国の遼東半島の燕と呼ばれる地域からやって来た移民が持ち込んだものと言われている。そしてBC108年に楽浪郡が設置されると、中国の鉄器文化が本格的に流入することになる。金海貝塚(韓国 慶尚南道)から鉄の斧が出土している。また司馬遷の記した「史記」の「貨殖列伝」には 燕の地域は、東は朝鮮などの地域と交易をして利益を得ていたという記録がある。ここに出てくる利益を鉄の事と考える研究者もいる。この様に中国との接触で広がっていく鉄の文化はその後、朝鮮半島の中で、鉄関連遺跡として見られるようになる。重要なものとしては、BC1世紀の ()戸里(ほり)1号墓 と呼ばれるものとか(こう)(じょう)(どう)遺跡・・・・がある。特にそれらの一部が()()韓国(かんこく)であったとするならば、倭との交流も含めて鉄というものが、非常に重要な意味を持つことになる。実際に朝鮮半島でどこの地域から鉄が出土するかというと、地図的にみると朝鮮半島の南東部、現在の釜山(ぷさん)金海(きめ)と呼ばれる地域から多く出土することが分かっている。つまり日本列島に近いこの地域から、鉄が出土するということはそれが東アジアにおいて、鉄を供給する大きなポイントだったということである。そして製鉄に関する伝承も確認できるようになる。

 朝鮮半島から各地への鉄の供給

「魏略」と呼ばれる、現在は失われてしまった中国の歴史書、ただ「三国志」の中に引用されている歴史書であるが、その中に西暦20年から23年の時に、ある人が楽浪郡の土地は素晴らしくそこに人が豊かに暮らして居るのを見て楽浪郡に亡命しようとした。そして自分が住んでいた村を出発した所、田の中で雀を追いかけている男を見かけた。話しかけると、言葉で韓の人ではないと分った。そこで話を聞いてみると、自分達は中国人である。1500人ほどいて、材木を切っていたが、韓の為に捕まって奴隷となって3年経った という話が載っている。ここで注目したいのは1500人が材木を切っていたという記述である。これは何故かというと、製鉄用の木炭製造ではないかと推定される。単なる材木であれば、1500人は多すぎる。製鉄用の木炭は大量消費されるので、大勢が必要である。この様にBC1世紀から1世紀にかけて、朝鮮半島南部の韓の区域に鉄が流入し、間をおかず資源としての生産が始まっていたと考えられる。そしてその鉄が周辺の地域にも流通していたのである。「魏志韓伝」には 國、鉄を出し、韓、穢は皆従ってこれを取る。その交易は鉄を用いており、中国の銭を使っているようなものである。そして更に楽浪郡と帯方郡にも供給している と記した部分がある。韓の中央部である 弁韓の地域で産出した鉄は、半島東部の穢や海を越えた倭まで流通していたのである。

 日本列島に

実際日本列島からは殆ど鉄は採れないことは知られている。弥生時代に鉄が使われていたのは、この朝鮮半島からの鉄が用いられていたことになる。しかし中国における貨幣のように鉄を用いた交易がおこなわれていたという部分については、鉄は重要な資源であり日常使いのように使われていたとは考えにくい。

  楽浪郡、帯方郡への供給

楽浪郡と帯方郡に供給したとされるのは、韓の地域からこの二つの郡に貢物として納めていたことを示すと思われる。

楽浪郡と帯方郡は弁韓の鉄を欲していたのであり、それが朝貢品として要求されていた。

  日本の青銅器時代と鉄器時代

さて世界史では、鉄器時代は青銅器時代の後に来ると位置づけられている。所が日本史はそのような段階にはならない。青銅器時代と鉄器時代がほぼ同時期に起きるという現象が生じている。これは弥生時代の初めまで石器時代であったが、そこに朝鮮半島から鉄と青銅がほぼ同時に齎されたという現象があったのである。

日本で見つかっている最も古い鉄器が愛媛県の大久保遺跡から発見されている。BC5世紀の中国東北部の燕で製造された鉄の斧である。これは鉄の斧として用いたものではなく、それは細かくバラバラにされて、更に加工されて使われていた。つまり鉄の斧を加工して、違う道具にして使っていたらしいのである。こうした形で、恐らく日本列島に鉄が流入してきたと考えられるのである。この燕の地域から日本列島に伝わってきたというのは一般的に言えば、朝鮮半島を経由してやって来たということになるが、朝鮮半島ではこの鉄の加工のし方は発見されていないので、ダイレクトに伝わってきたのではないかという考え方もある。実際に(くしろ)という腕輪など、燕の文化と言われるものが朝鮮半島を経由せずに入ってきたと考えられるものが幾つも見つかっている。東北アジア、特に遼東半島辺りと日本列島がかなり直接に繋がっていたというルートが、今後注目されるべきである。

いずれにしても3世紀まで朝鮮半島、特に韓の地域から鉄を入手していたと言うことは、日本列島で鉄を作る技術がなかったことを示している。日本で鉄の資源を作るというのは、6世紀からと言われる。

  日本列島での鉄生産とその体制

さて鉄生産は鉄鉱石を採掘し精錬し、更に鋳造、鍛造するという過程がある。鍛造は熱した鉄を叩いて成形するもの。鋳造は鋳型に流し込んで作るもの。いずれにしても鉄生産は小さな集団で出来るものではない。かなり大きな国レベルで行われており、その国の首長がその製造全体を掌握していたと考えねばならない。そうすると弥生時代には鉄の流通は国を単位として行われていた。一方鉄の出土を見ると、弥生中期には九州北部に集中している。これに対して弥生末期になると九州北部は同じ位であるが、近畿で増加する傾向が出てくる。
このことから九州北部が衰えて近畿が伸ばして来たのではなく、九州北部はそのままの力を維持しながら近畿が力をつけてきたと見るべきであろう。これは単に争いによって近畿に広まっていったというより、或いは連合体のような組織が形成され、その中で近畿の国々にも鉄器が分配されるようなことが起きていたと考えられる。なお弥生時代には鉄の採掘は確認されないが、加工技術・鍛造・鋳造技術は見られる。その遺構は九州に集中しており、たたら設備の内部で行われていた。但しこの技術は同時代の朝鮮半島のそれと比較すると、格差は大きい。むずかしい加工技術、最先端の加工技術は政治的理由で齎されなかったのであろう。言い換えれば日本列島に齎されたのは日常品レベルであった。

 倭国の乱と鉄

別の大きな出来事として注目されるのが、2世紀後半に発生した倭国の乱である。これが九州北部偏重であった鉄器の分布に変化を齎したという考え方もある。なお同時期の朝鮮半島では()()韓国(かんこく)において、戦乱に対する防衛施設である環濠集落が見つかっている。これを見ると、()()韓国(かんこく)の中の争いと、倭国の内乱とが相関関係がある可能性がある。

先程見たように、この()()韓国(かんこく)の辺りは鉄の生産、鉄を再生産することが出来る地域ということで、鉄を巡る争いが倭国の乱の一つの原因だったという可能性も考えられるのである

  新技術の導入  (ふいご)()(ぐち) 

一方で弥生時代後半から古墳時代になると、新しい技術が日本列島に齎される。一つは(ふいご)()(ぐち) と呼ばれるもので、送風技術である。この送風技術・空気を大量に送り込むことによって加熱温度を上げることが出来、より純度の高い鉄を作れるようになる。また鉄の遺跡を判断する重要な要素として、(てっ)(さい)と呼ばれるものがある。これは鉄を鍛冶、鍛造する中の初期段階で出てくる不純物である。鉄の遺跡は当初、床に直接火を燃やすということで、緻密な炉を作らなかった。この為鉄の遺跡がどうか判断しにくいことがあった。この鉄滓が出てくれば、鉄の遺跡ということが判断できる。この炉も朝鮮半島の技術が持ち込まれ、徐々に高度化して、高温化する。更に鉄をリサイクルするためにも、

この高温化できる炉が不可欠である。又道具としての鉄(かんな)と呼ばれるものが発明されたりもした。

  鉄の持つ意味の変化 権力の象徴 原料は鉄斧から鉄へ変化

そして古墳時代の初期には、鉄製品の東への普及も徐々に始まる。弥生時代から古墳時代を通じて、鉄は徐々に東に広まっていった。ただ一方で鉄が九州北部から出続けているという状況は変わらない。それが徐々に近畿が増えてくる。遺跡が東日本からも出るようになる。この鉄の出方というのは、鉄が経済的に有用であったというよりは、政治的・祭祀的な意味で重要である事を表すという説もある。古墳時代に入ると、鉄はもう一つの意味を持つようになる。

それはその重要性から大量に持っている者が、権力を保有する人物だという権力の象徴という意味付けが現れて来る。特に注目されるのは、鉄の素材、鉄鉱石を加工して素材としての鉄・インゴットというが、それが朝鮮半島から齎されるようになる。それはどういう形で現れるかというと、板状(てっ)()、袋状鉄斧と言われる鉄の斧の形で現れる。鉄の斧というのは、鉄の塊なので原料の意味を持つ。鉄の再利用は先程言ったように高温化する炉がないと技術的に難しいが、弥生時代の終わりから古墳時代にかけて、技術革新でそれが実現したのは大きな意味があった。

この様に鉄資源を朝鮮半島から獲得し日本列島内で鉄製品を生産できるようになった。古墳時代前期にこの様な板状鉄斧と呼ばれる鉄の素材が、(てつてい)と呼ばれるものに変化する。この鉄鋌は古墳の中にも大量に埋蔵されることがある

つまり資源として利用されるのではなくて、大量に保存することでこれを古墳の副葬品として埋めてしまう事、これは消費に他ならない。つまり再利用できないのである。そういう事が出来るのが権力者であることを表すという意味で、権力の象徴となっていくのである。

  楽浪郡と帯方郡の滅亡による鉄の流通の変化 日本列島への大量流入

こうした鉄の流通について大きな画期となったのは、313年の楽浪郡と帯方郡の滅亡である。何故かというと、朝鮮半島の韓の地域で採れた鉄は、楽浪郡と帯方郡に納めねばならなかった。つまり(べん)(しん)から採れた鉄は、自由にできるものではなく一定量を楽浪郡と帯方郡に持って行かれていた。所がこれが無くなったのである。そうするとその鉄は(べん)(しん)が処分できるようになる。これが倭に大量に鉄が入ってくるきっかけとなった。楽浪郡と帯方郡の滅亡は日本列島に取っては鉄の大量輸入を齎したのである。これによって日本列島内の鉄器需要、特に4世紀後半から5世紀にかけて武具、馬具などが大量に作られるようになるが、その原料として使われることとなった。そこには朝鮮半島からの供給ルートが重要で、それを大きく抑えていたのが大和政権であったのではないか。

  大和王権の鉄の管理

一方素材としての鉄ばかりではなく、鉄加工品の中にも鉄鏃であるが特殊なものが現れるようになる。これは朝鮮半島からのものではなく国産であることが分かっている。そこに何が出てくるかというと、王権の為に特殊な鉄製品を作る工人・技術者が現れたということである。これは王権が技術者を管理するということにおいて、組織が準備されていくという過程を窺うことが出来る。そして更に古墳の中に納める副葬品がどのようなものであるか、必要なものがあるかという所で、古墳時代前期にパタ-ンが定まっていく。

その中で納めるべき鉄製品は高価なもの、重要なものとして扱われるようになる。鉄器の生産は権力者の道具と、日常の道具や武器としての製品に分かれて行く。鉄であれば重要というのではなく、鉄で作られた特殊なものが重要なのである。もしくは(てつてい)と呼ばれる素材として再利用可能なものを大量に保有して、更に副葬品として埋めて権力を示すのである。この様に古墳時代前期の鉄供給というのは、時の権力の動向に強く影響されていた。

その一方で東西の格差が縮まる。九州北部の圧倒的な優位な状況から、ある程度フラットな状態になっていく。そこには鉄器の生産や消費には西高東低という格差が残っているが、徐々に解消されるというのがこの時期の特色である。王権は鉄の技術者を掌握する。その技術者に特殊な鉄製品を作らせる。それによって王権は自分を権威化する。ただ政権だけでなく他の有力な豪族たちも共有するものがおり、まだ確立した権力ではなかったと言える。

 

「コメント」

 

楽浪郡・帯方郡の滅亡が倭への鉄供給に大きく影響したのだ。大陸の、朝鮮半島の情勢が強く影響する例である。