250218⑧「大和政権成立期の東アジア」
卑弥呼の時代の国際関係 魏の東アジア政策 高句麗との抗争
今回は国際関係について見ていく。先ず邪馬台国の時の国際関係から振り返る。実は邪馬台国と魏の外交関係というのは、朝鮮半島の動向が重要な意味を持っている。卑弥呼が魏に外交使節を派遣したのは、238年もしくは239年と言われる。だから247年まで狗奴国との戦争のさなかに卑弥呼が死んだとされる訳で、この間の230年代の終わりから240年までの10年間というのは、魏の東南アジア政策が活発に行われていた時代でもある。そもそも魏は遼東半島に勢力を置いていた公孫氏を滅ぼしているが、その時に公孫氏が設置した帯方郡を接収している。そして以後、帯方郡とそれ以前から領有していた楽浪郡の二つが、魏の東アジア政策の拠点となる。これは滅ぼした直後から魏は着手しており、240年には帯方郡の太守が赴任している。この太守は同年のうちに倭国に役人を出して、卑弥呼に印綬を持たせている。この様に帯方郡というのは魏が公孫氏から接収して、それをそのまま東アジアの拠点として活用し、倭国にまでコンタクトを取っているのである。しかしこの様に魏の活動というのは、必ずしも平和的なばかりではない。むしろ大国の中国が東アジアに乗り込んできたというのは、周辺諸国にとっては警戒の対象となった。特に強く反応したのが、朝鮮半島北方にあった高句麗である。高句麗は242年に魏の辺境に侵入している。これは楽浪郡帯方郡に魏が勢力を及ぼして来たことに対する過剰反応と言える。この侵攻に対して魏も大国として反撃する。そこで行われたのが、244年~245年に行われた魏の高句麗への討伐である、この討伐は激しいもので、高句麗の都を陥落させている。その際の高句麗王は都から逃げてシベリア方面まで逃走した。そして魏の軍も王を追いかけてシベリア近くまで進んでいる。中国の最精鋭の軍隊がこの地域まで進んでくるというのは、初めての出来事であり非常に強いインパクトを周辺の国々に与えた。また、当時の高句麗の朝鮮半島の東海岸にも影響力を及ぼしており、その地域には 穢 という民族がいた。この 穢 という民族についても、高句麗を討伐する時に同時に攻撃の対象とした。それは楽浪郡の太守が 穢 を討伐したという記録があることから分る。つまり遼東半島の方から高句麗の都に向け部隊を動かしたのと、楽浪郡、帯方郡が南の方から高句麗の影響の及んでいる 穢 の方を攻めるという両面作戦をやっていた。まさに卑弥呼が魏と積極的に外交をやっていたり、帯方郡と交渉をしていた、そういう時期に朝鮮半島の北方では激しい動きがあったのである。卑弥呼の外交の一部に、こうした情勢に影響を受けていたというのは十分に考えられることである。
魏の朝鮮半島政策
そして魏が朝鮮半島に介入していったということで、次のステップに進む。それは朝鮮半島南部の韓と呼ばれる地域を刺激して反乱が起こることになる。この韓という地域は、馬韓・弁韓・辰韓と呼ばれる三つの地域であるが、楽浪郡や帯方郡との交流があった。しかしこの軍事介入はこの韓の地域の人々を不安に陥れ反乱へとなった。太守はこれを鎮圧しようとして却って拡大してしまうという結果となった。こうした所から朝鮮半島統治は難しいものであったことが分かる。
一方卑弥呼が魏に外交使節を派遣したという頃から、魏の中の権力争いが激化する。
三国志で 死せる孔明生ける仲達を走らす という格言で知られている 司馬 懿(仲達)が230年から240年にかけて権力を握る。そもそも公孫氏討伐は、蜀との戦いが孔明の死で停戦状態になったことで、東に軍隊を振り向けることが可能になったのである。そう言った点では、蜀との戦争が終わったので、魏は高句麗と公孫氏を滅ぼし、そこに卑弥呼が現れるということに成るのである。魏では 司馬一族の権力は強化され、ついには皇帝すら殺害している。「魏志倭人伝」には、記されていないが、「晋書倭人伝」には倭人がしばしばやってきたという記事がある。つまり「魏志倭人伝」では壱与が外交使節を派遣したという所で止まっているが、その後も外交交渉はあったらしいということである。
魏から晋へ 壱与の外交使節
司馬 懿(仲達)の息子が宰相であった250年代には、魏に倭国から外交使節が派遣されていたことが見えている。この事は余り知られていないが、司馬 懿(仲達)の孫の司馬炎が禅譲を受けて皇帝となって、新しい王朝を立てたのが晋である。その翌年の266年に壱与が使節を派遣したと言われる。この倭国のことはいくつか残っていて、 倭人来たりて宝物を献ず という記録がある。
一方「日本書紀」に神功皇后摂政66年の所に、中国の史料を引用しながら、 倭の女王 貢献せしむ ということで、倭の女王の使節がやってきたという記述がある。壱与は250年前後に13歳で即位したと考えられており、それを基にすれば266年に壱与は30歳前後ということになる。倭の女王が外交使節を派遣することには問題はない。この様に266年に倭が朝貢したとすれば、それは魏が滅亡した直後にやって来たということに成る。そこで当時の壱与は滅亡を知っていたのか 新しい王朝が出来たので派遣したのかということになる。ただ当時の情報伝達の在り方からすると、王朝が滅んだということが、すぐに外国に広まるということは考えにくいということで、壱与は魏の滅亡を知らずに派遣した可能性が高い。つまり魏との外交を行おうとしたら、魏が滅んで新しい王朝になっていたという状況である。邪馬台国の外交は266年の派遣をもって途絶えたと考えられるが、それは柵封を受けていた魏が滅亡したということが影響していた可能性が大きい。
晋の外交政策
一方晋の時代になると、国際関係も動き出す。晋の対外政策は、後漢、魏の外交政策を引き継いだ側面が強い。東アジアの統治機関となった楽浪郡と帯方郡を引き継いでいる。また漢代以来軍事利用も行っている。これは実際に朝鮮半島からいくつかの印綬が見つかっていることからも推察される。紹介すると、一つは 晋が高句麗の有力者に役職と共に印を与えたこと。またもう一つは朝鮮半島の東側にある穢の地域の有力者に与えたものとされる。晋は帯方郡や楽浪郡を通して、高句麗や穢などの周辺民族に対して印を授けたということである。一方文献でも、晋と周辺民族との交渉は確認できる。3世紀後半に 東夷 と記された東の野蛮人が、朝貢して来たということが、繰り返し記されている。例えば276年には、東夷8ヶ国が帰化したという記録が出てきたり、東夷17国が柵封されようとやって来たという記録がある。その後の277、280、281、282、286、287、288年と繰り返し出てくる。この時期、集中的に東夷の諸国が晋に外交使節を送っている。特に282年には、29ヶ国が帰化したと記録されていて、大量の国々がやって来た。これが何処の国なのかは記録されていないのは惜しまれる。ただ晋は帯方郡や楽浪郡を通じて、東夷 東アジアに外交力を発揮していたというのは間違いない。こうした外交の中で注目されるのは、遠方の国が近くの国を媒体にして、中国に到来することである。
実は倭人もこのやり方でやって来たことが記されている。晋書には景初3年春正月に東夷がやってきて貢物を納めたとある。これは日本列島の国、邪馬台国及びその他の国が、中国の都に行くには朝鮮半島の南部を通らねばならない。更にはいきなり都に行くのではなく、一旦帯方郡について帯方郡から仲立ちを受けて、都に進むということになる。この様に目的地に向かって一直線ではないというのが、当時の外交のやり方である。恐らく3世紀後半の多くの国々が争ってやってきたのは、纏まって晋に外交使節を派遣することにあった。特に20ヶ国以上の多数の国が集まったというのがあるが、例えば倭、日本列島で言えば邪馬台国を中心とした29ヶ国の連合体が存在する。或いは朝鮮半島の南西部、馬韓の地域には50ヶ国以上の小国があったと記されている。そうした国が纏まって中国と交渉しようとしているならば、一つのまとまりを作ろうとする動きがあったかもしれない。ただ一方で中心となる国が登場しないで、小さな国が幾つもやってきたように記されているのは注目すべき所である。
もしもこの中に倭の国々が含まれるとすると、それは3世紀半ばに小国を取りまとめていた邪馬台国が、何らかの原因で、外交の代表者としての立場を失っていた可能性がある。ただそれが実際どうであったかというのは、文献で知ることは困難である。
晋の衰退
さて3世紀後半には、東アジアに影響を及ぼすことに成功していた晋であるが、その後急速に衰退する。290年に初代皇帝の武帝が亡くなって、二代目の恵帝が即位したが、中国皇帝の中でも屈指の暗愚の皇帝として知られている。
農民が飢饉で苦しんでいる時に、肉を食べれば良いと言ったという。そもそも晋王朝で皇族の力が強かったという問題がある。これは魏の皇帝以外の皇族が力を持つことを警戒して、皇族を重要な地位に付けなかった。逆にその反省で、皇族以外の貴族を優遇するのを警戒して皇族を重要な地位に就けたが、それが結果として皇族間の権力争いを激しくするということになった。301年に8人の皇族が争うことになる。これによって国力は急速に低下する。一方この争いが起きる直前までは、西晋は辺境支配に異民族を利用したということも分かっている。例えば北方の鮮卑族リーダ-を鮮卑都督という役職に任命している。また北方民族の出自である匈奴のリ-ダ-を、匈奴都督に。こうした二人は中国史において重要な影響を及ぼしている。高句麗でも同様であった。晋の衰えは辺境の国々及び周辺を不安定化していく。
316年には匈奴による 永嘉の乱 が起きて晋は滅亡する。
高句麗の台頭 楽浪郡帯方郡の滅亡 それによる日本外交への影響
この晋の衰退と反比例するように、勢力を伸ばしたのが高句麗である。3世紀の半ばには魏に責められて勢力を拡大できなかったが、300年に美川王が即位し、高句麗発展の礎を作った。更に楽浪郡を滅亡に追い込んでいる。その翌年に更に南下して帯方郡を滅ぼした。ここでBC1世紀以降の楽浪郡の朝鮮半島支配の時代は終わった。但し楽浪郡や帯方郡にいた中国人や土着した中国人の半島支配として両郡は残ることになった。またこうした中国人は中国に戻ることなく、半島の中に残っていく。中には日本列島に来た人がいる。そうした人々が渡来系の人々として新しい文化の持ち込む側面もあった。帯方郡の滅亡は倭国にとっても節目になった可能性がある。倭の中国外交は古くから楽浪郡、3世紀以降は帯方郡を介して行われていた。高句麗がこの二つの部門を滅ぼしたことによって、中国王朝との接点が失われた。4世紀に中国の史料から姿を消してしまって、空白の4世紀と呼ばれることがある。その原因の一つがこの高句麗による二つの郡の滅亡ということがある。
東晋の再興
さて中国の方では晋が匈奴の侵入で滅亡して後、司馬氏の一族の司馬睿が317年に即位して晋の復興を図る。それは中国の南半分であり、北半分は異民族が席巻している状態であった。この時南側だけで成立した晋を、全土を支配していた晋と区別するために東晋と呼ぶ。東晋には混乱する北方地域から貴族が亡命してきており、東晋はそれを受け入れた。その為に東晋王朝は高齢の皇族と貴族との寄り合い所帯となり、内部対立による反乱が頻発する。
建立直後の322年に王敦の反乱など次々と反乱がおきる。但し華北の方も東晋以上に混乱していたので、東晋は滅亡することはなかった。ただこのような中国の情勢は周辺民族においては、動きを活発化させることになる。
鮮卑族は遼東半島に勢力を伸ばし高句麗に侵入したりしていた。高句麗では331年に高句麗を復興させた美川王が死去し、故国原王が即位。当時の国境は厳密なものでなく、中国での内部闘争で敗れた将軍が高句麗に亡命するということが繰り返し行われていた。この事は中国側の史料にも記されている。この当時は一般的に高句麗に受け入れられ、そして高句麗の中で亡命者は力を持ったようである。当時の立場というのは、高句麗の官職に組み込まれることではなく、客将のような立場で、その勢力を維持していたと考えられる。その事は当時の墓である安岳3号墳が発掘され、その石室の中に壁画や当時の経歴が記された文章が発見されたので分かった。そこにおいて亡命後の立場が判明した。
鮮卑族の前燕の成立 高句麗との衝突
一方西晋を敗北に追い込んだ鮮卑族の慕容皝は337年に皇帝に即位し、前燕という王朝を中国東北部に作る。この前燕は高句麗と度々衝突する。342年に前燕が高句麗の都に侵攻する。美川王の墓が暴かれ、遺体が持ち去られるという事件が起きる。更に故国原王の母や妻を拉致するということも記されている。それによって高句麗は前燕に服属することになる。この一件は東アジアの動向に大きな影響を与えた。それは高句麗が西の方、遼東半島方面に勢力を伸ばすことが難しくなったということを表す。つまり高句麗がここから先、どのように勢力を伸ばしていくかということになると、北や東は中々勢力を伸ばす環境にはない。西に広げることは政治的に難しい。そうすると南の方に勢力を伸ばすしかない。高句麗が南に勢力を伸ばすというのは、次の時代に大きな問題になって倭国にとっても重要な局面になってくる。
「コメント」
東アジアの歴史の勉強はそれで面白かった。やっと大和との接点が見えてきた。