250211⑦「騎馬民族説と王権交代説」
そもそも大和王権成立はどのように説明されてきたのか。日本史を見ていくと、天皇の立場というのが重視された時期と重視されない時期があって、古代や近代は天皇の立場が大きくなっている時期である。これに対して中世近世というのは、幕府が政治を行っている時で、天皇の存在は軽くなっていた。古代と近代は、天皇がどのように現れてきたのか、何故支配できたのかを説明していくにことになる。
天孫降臨
先ず古代の方から見ていく。「古事記」「日本書紀」には、神話に天皇が日本列島を支配した事の由来が描かれている。特に天照大神の指示によって、その孫の瓊瓊杵尊が天孫降臨、高天原から 豊葦原瑞穂国 日本列島に下ってくることになる。これが「古事記」の幕開けと言われる。更に瓊瓊杵尊の子孫である神武天皇が、東征と呼ばれる遠征で大和に入って天皇家が成立したという流れが語られている。「古事記」「日本書紀」では日本列島にすむ人々、特に支配者である氏族は、渡来系氏族を除いて天孫降臨の時に瓊瓊杵尊の命に従って一緒に下ってきた神か、或いは天皇の皇子がそのまま氏族になっていったのかどちらかであるとされる。つまり神話や伝承の歴史の中で、日本に住む人々は渡来系氏族を除いて、全て天皇家と繋がりを持っているとされる。それによって支配者として一体性を作り出して、一つの支配に向かって行った。元々は別々の存在であったものを、結び付けて行ったのである。逆に言うと「日本書紀」にそのような事が語られているということは、「日本書紀」を作る時に大きく天皇に結びつける形で改変したと窺わせるのである。
明治憲法の天皇
一方近代では別の意味で古代は注目されるようになる。大日本帝国憲法いわゆる明治憲法第一条に 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す と定められている。つまり天皇は万世一系ということで、代々一つの血筋で伝えられるべき地位だと説明しされている。そして更に皇位継承を父親が天皇である男子、なおかつ直系を目指すということが定められている。規定は現在でも生き続けていて、女帝の問題に行きついていく。
当時としては中央集権的国家体制を作ろうとするときに、天皇は男子であることを求めていて、更に家父長制の下に父親から長男へということが強調されていた。とはいえ、明治時代においてもそのような考え方は、決して支配的でなかった所がある。明治憲法がどういう憲法であるかについて、様々な議論があった。そうした中で、女帝の存在そのものも良いという意見も出ていたが、家父長制重視の中で男子のみとなった。天皇の地位はどのように継承されるのかというのは、政治情勢に左右されるのである。そして明治憲法および明治時代に定められた皇室典範、そこで作り出された皇位継承に関する規定というのは、その後戦前では皇国史観と呼ばれて定着する。それは天皇が日本を統治するという国体を重視する歴史観であり、皇祖神の天照大神を起点として 天壌無窮の神勅 と呼ばれる天皇家が日本を支配するということが正当化され、天皇の歴史が語られるということになる。
皇紀2600年 建国記念
さて「日本書紀」では初代天皇・神武天皇は紀元前660年1月1日に即位したとされる。辛酉の年と記されている。辛酉は中国では革命が起きる年だとされる。「日本書紀」は明治から昭和にかけてとても重視された。その中で神武天皇が即位した年を元年とする皇紀が広まる。特に1940年には皇紀2600年が記念年となる。神武天皇が即位したのは1月1日とあるが、これは旧暦で新暦では2月11日となる。明治憲法の発布されたのは1989年2月11日。つまりこの憲法は神武即位を意識している。又戦後には建国記念日として位置づけられ、現在に到っている。この様に神武天皇以来の意識は、学問的ではなく政治的な局面で強調され続けている。一方学問においては、そうした政治的な話と一線を画し、研究を続けようとしていた。その代表が津田左右吉、彼は「日本書紀」「古事記」の研究や、著書「神代史の研究」において記紀の史実を歴史学的に検証して、神話伝承と歴史的事実を区別しようとした。但しこれは「日本書紀」に書かれていることを、批判することにもなるので右翼思想家の攻撃を受けた。1939年には不敬罪として告発され、翌年には発禁処分となっている。この様に戦前は学問を語ることは出来なくなり、記紀の神話はそのまま事実して認めるべきとされた。
しかし1945年敗戦によって、日本の旧体制が崩壊する。これで皇国史観の呪縛から解放された。それによって天皇家はいつどのように現れたのか、大和王権はどのように成立したのかということについて、新たな考え方が自由に議論できるようになった。それが騎馬民族説であり、王朝交代説である。
騎馬民族説
まず騎馬民族説について紹介する。1948年アジア考古学者であった江上波夫が提唱した学説である。要約すると、4世紀後半に扶余と呼ばれる朝鮮半島の更に北側にいた民族、扶余系の騎馬民族が南下して朝鮮半島を経由して日本列島に上陸し、大和王権を打ち立てたという説である。これを天皇家の系譜と結び付けて説明した。初代天皇から9代目の開化天皇までは、騎馬民族とは別に、当時の日本列島にあった土着の王権であると位置づける。そして10代目の崇神天皇が日本列島に騎馬民族として征服王朝を立てた。つまりここに王権を倒して、騎馬民族が征服して新しい王権を打ち立てた。その後続く天皇家の始まりであるとした。尚南下は短期間ではなくて、崇神自体は任那の王の出身であるとしている。それから日本列島にやってきたという。騎馬民族説の論拠であるが、アジア考古学という立場から語っている。特に言及したのは東北アジアから日本列島に分布している神話に、よく似ているものがある。特に天孫降臨型の神話は、東アジア全般にあるということから、騎馬民族が元々持っていた神話であり、それが日本列島に持ち込まれたのであり、それが定着して「古事記」「日本書紀」に記されることになったと説明する。また4世紀の終わり頃から牛や馬が出現することにも注目する。「魏志倭人伝」には牛、馬は日本列島にはいないと書かれていたのでその頃にはいなかった。ところが4世紀の終わりころから、馬が現れたと考古学的知見から語り、これは騎馬民族が来たからとする。また古墳の副葬品も4世紀までは宗教的品物が多いが、5世紀になると軍事的性質の物、馬具とかが多くなる。この変化を騎馬民族が乗り込んで、新しい権力者が誕生したとする。この騎馬民族説は1948年に出され、当時はまだ皇国史観が残っていた時だから、それを塗り替える新しい考え方として人々に大きな衝撃を与えた。なお皇国史観では、古代では朝鮮半島を支配していたという植民地史観を持っていたが、騎馬民族説ではむしろ朝鮮半島から来た人々が日本を支配していたという発想になる。この発想の転換というのが、人々に斬新さを与え大きな刺激を与えた。何より天皇家の系譜、天皇家はどこから来たのかということについて、自由に語るということが出来ることが明らかになった。それまでは神聖で不可侵とされていた。皇国史観を学問的に研究する、批判する先駆けとなったので、この騎馬民族説というのは学史上、大きな存在であった。現在でも日本は農耕民族を中心とする国家であるという考え方があるが、それに対してアンチテ-ゼを出したという点でもインパクトがあった。特に一国史を越えて東南アジアレベルで、王権を考えるというのは非常に壮大なイメージを持つものであり、それが一世を風靡したという理由である。
騎馬民族説への批判 騎馬民族説は成り立たないが定説
但しこれに対して当然批判もある。例えば東洋史の立場から、渡来人が大きな影響を与えたのは、紀元前2世紀ころであって、4世紀の終わりではないというような見解が出ている。また渡来人は何回も繰り返しやってきているので、必ずしも批判が有効かどうかというのは難しい。他には乗馬文化、馬に乗る文化は5世紀中頃になって出てくるので、4世紀に遡ることはないという意見もある。そしてなにより4世紀~5世紀にかけての古墳文化というのは、継続的に発展したのである。外から全く違うものがやってきて、変化したというものではないという反論がある。そもそも朝鮮半島から騎馬民族がやってきたとすると、朝鮮半島の文化と似ているというのが前提となるが、朝鮮半島の古墳と日本の前方後円墳に共通するものは少ない。古墳文化は外部から持ち込まれたものではないというような批判も出ている。そして騎馬民族説の一番の根幹である騎馬文化について、例えば家畜の去勢文化について、例えば家畜を去勢するとか、馬車として利用するなどの文化が日本列島には全く出てこないなどのこともある。現在でも騎馬民族説が成り立つか成り立たないかと言われたら、成り立たないということで一致している。
しかしそれまでの皇国史観的な考えを突き崩すという点で、この騎馬民族説は重要な役割を果たしたし、「日本書紀」を読む時に書いてあることは事実をべ―スとしていると考えがちであるが、書かれていることが本当にそうなのかと疑わねばならないということを、最初に突き付けたものであった。
王朝交代論について
早大教授の水野祐が提唱した学説である。1952年に「日本古代文明王朝史論序説」という本で、この見解を述べた。
飛鳥時代における大王家は、王朝交代が二回あったと考える学説である。騎馬民族説がその前に出ているので、騎馬民族説も意識しなから、でもそれとは違う形で提案している。この王朝交代論では皇国史観において万世一系であったとされる皇統のうち、神武~開化までは、存在しないとして除外する。崇神天皇から応神天皇まで古王朝であるとして、そして仁徳天皇から武烈天皇までを中王朝、そして継体天皇以降を新王朝と区分する。どういう風にしてこの三つに区分したか。ここで手掛りとして挙げているのが三つである。
・「古事記」の 崩年干支 とよばれるもの
・「古事記」「日本書紀」の 和風諡号
・「日本書紀」の空位について
崩年干支
崩年干支 については「古事記」には死去した事が記されている天皇と記されていない天皇がある。記されている天皇には、何らかの記録が残っていて実在する。記されていない天皇は実在しないフィクションの天皇であると判定する。
これによれば例えば、神武から開化までも、崇神天皇の後の垂仁天皇や景行天皇も、5世紀雄略天皇の前に居た安康天皇や雄略の後の清寧天皇から武烈天皇などは実在しないとなる。
和風諡号
次に和風諡号であるが、和風諡号というのは大王や天皇が死んだ後に贈られる称号呼び名のことである。例えば継体天皇が オオドオウ という和風諡号で記されている様に、実名のまま記録されていることもあった。それは時代が後になると、実名のままではなくて 呼び名が付けられて呼ばれるようになる。この和風諡号というのは、死んだ直後に贈られるということ、そして同じ時期に使われているのは、類似した名前であるという考え方であるということから、和風諡号が似ている天皇は同じ王朝、異なる場合は違う王朝であるという考え方である。
空位
そして「日本書紀」には、きちんと皇位が継承されたというのではなく、空位が発生したという時期が幾つかある。その時期に王朝交代があったのではないかという。空位は何時発生したのかというと、応神天皇が死んだ後、仁徳天皇と菟道稚郎子(異母弟)が皇位を譲り合ったという伝承がある。この時に3年の空位が発生している。継体天皇が死んだあと安閑天皇が即位するまでに空位がある。この空位が発生するというのは、この時期に政治的問題が発生したのではないかと注目されるのである。
王朝交代論の反響
この様に王朝交代論は騎馬民族説と考証が似ているが、騎馬民族説は民俗学、考古学、神話学などをベ-スとしている。その為日本史、古代史研究者の批判はそれほど多くはない。それにたいして王朝交代論は「古事記」「日本書紀」の資料に拠っており、特に津田左右吉の「帝紀旧辞論」という古い歴史書の研究をもとにして、そこに外交関係や考古資料を組み合わせているのである。騎馬民族説と違う形で、天皇家を考えようとしたのである。
この王朝交代という言葉のインパクトとも相まって、様々な影響を及ぼす。特に多く王朝交代論をアレンジしたような学説が出てくる。例えば畿内の地域に王朝があったとする河内王朝論とか、奈良盆地の中でも南西部の異なる地域に王朝があったとする葛城王朝論とか幾つかある。この王朝交代論の基礎である「古事記」「日本書紀」を基準に古代史を考えようとすることに注意を促すものであり、「古事記」「日本書紀」の批判的研究が必要であるということを強く訴えかけることになる。つまり「古事記」「日本書紀」では神武天皇以来、途切れることが無く天皇の皇統が続いているというのがあるが、そういう滅びない天皇というある種、日本史を特別化する考え方をそのままでいいのかと訴えかけた展開である。
ただ王朝交代論もそのまま受け入れられたわけではない。「古事記」「日本書紀」を史料批判しながら論証していく訳であるが、その史料批判がかならずしも十分ではなかった。例えば「古事記」の崩年干支について、9世紀に実在が確実視されている欽明天皇も、この崩年干支が記されていない。水野祐氏の基準によると欽明天皇も存在しないということになってしまう。故に 崩年干支 の有る無しだけで実在非実在を語ってしまうと、実に雑駁な議論になってしまう。また記紀のもとになった帝紀、旧辞を「古事記」「日本書紀」はそのまま記しているのだというのが前提になっているが、実は「古事記」「日本書紀」を見て比べてみると、崩年干支 が一致してない所が結構ある。最初に述べた様に「日本書紀」の編纂の時に神話が改変されている様に、天皇の人数とか在位年代とかかなり手が加わっていることは分っている。だからそのままの形で「古事記」「日本書紀」に記されていることを受け取ることは間違いである。また王朝交代論は男系大王による世襲制というのがすでにあったのだということを疑っていない。これは当時の社会状況とは対応していない。世襲制というのがまだ成立していない時期である。この様に王朝交代論もそのままの形で、現在受け入れられていることは決してないが、文献史学の立場から天皇制を捉え直すというのは最初に打ち出した重要な見解であった。
この様に二つの学説は万世一系を批判することにより、古代の天皇論について多様な議論を可能にした。これは 大和王権の形成 という今日のテ-マのスタート地点にある学説である。これはそれ以前に日本人の頭の中に強くこびりついていた皇国史観の考え方を削り取ることに大きな役割を果たした。ただ一方で4世紀~5世紀に日本列島内には、天皇家のもとになる大王家は存在していた。政権は世襲によって引き継がれる。断裂があって新しい王朝が出てくるにしても、王朝の中では世襲制度はありと、いう風に考えるのは割合、皇国史観的な考えでもある。それは時代の限界であったともいえる。これを踏まえてどのように考えるのかというと、権力がどのように出現したのか、王権がどのように形成されて国家になっていくのか ということそれ自体をステップとして考えて行かねばならない。ある時、外部から大きな勢力がやってきて、そのまま支配者になったというのは、説明をきちんとしていないということに成りかねない。現在の日本古代史の研究では、そうした最初に出てきた王権がどのようにして世襲の天皇制に発展したのかというのを、ひとつの課題として取り組んでいる。現在の研究について、4世紀の日本列島内には豪族たちの連合政権が成り立っていたという風に考えられている。ただこれを統一的な王朝と言えるかどうかという点は、そのような評価はされていない。一方で考古学が非常に進展してきていて、前方後円墳は各地の墳丘墓の特色を併せて作り出されていたということは既に話した。
前方後円墳の造営こそ、連合体に属していることを示している。連合体の盟主、リーダ-であることが大王であって、その大王の地位というのは必ずしも父から息子、また兄から弟と動いているかという所は、決して当たり前ではない。
そこを追及していく必要がある。今回は「古事記」「日本書紀」の系譜について、かなりの手が加えられており、慎重に扱う必要がある事を説明した。とはいえ、全てフィクションであるとするのは乱暴である。系譜の分析次第では、この大王系譜と呼ばれるものの、古い系譜の一端をのこしていることが明らかになることがあるかも知れない。いずれにしても、初期大和王権は、だれがいたかではなく、どのような存在であったかということを問われることが必要ある。
「コメント」
ただひたすら「古事記」「日本書紀」を読むのではなく、その中の整合性や違いに目を凝らし、その裏の史実を見付ける時代なのだ。これには中国の史料の精度高い読み方も肝要か。古代史学が極めて論理的になってきたぞ。イメチェン。