250204⑥「王権の始祖」
今回は王権の始祖という観点から古代史を考える。ここでは始祖と言ったが、大和王権が出来て其最初の王権は、一体どのようなものであったか。これはとても難しい問題である。3世紀の後半に奈良盆地を中心とする豪族が、前方後円墳を共有する体制を作り上げたということは前回話した。その中心に存在したのが、大和政権だったわけである。
そして大和政権の盟主、連合体のリーダ-として存在していたのが大王である。その大王とはどんな人物であったのか。
そこで今回は後の時代から見て、王権の始まりをどう理解したらよいのかという視点で考えてみる。
「古事記」「日本書紀」に見る皇統譜
さてこうしたことを考える時には、考古学的には論証は難しい。そして文献資料においてどうかというと、「古事記」「日本書紀」が思い当たる訳であるが、「古事記」「日本書紀」は奈良時代に編纂された歴史書なので、ここに色々な作為が入っていることは要注意である。「古事記」「日本書紀」には皇統譜と一緒に天皇の血筋、血統関係が記されている。これを見ると、神武天皇に始まって、日本武尊の所で一部乱れがあるものの、応神天皇まではほぼ父親から息子へと一直線で記されている。所が応神天皇の後の仁徳天皇の辺りから兄弟の相続が頻繁になる。古くから父から息子への継承というよりも、兄から弟への継承が一般的であった。同世代での継承が途絶えた時に漸く、下の世代に移るのだという考え方がある。そうした所から見ると、応神天皇以前というのは、きわめて不自然な継承のし方をしていると言える。それでは兄弟継承となった所からは信頼できるかというと、この部分についても5世紀の中国資料などと比較しても、どうも同じ一族という程度の感覚は在ったが、兄弟という近い血縁とは必ずしも言えない。つまり「古事記」「日本書紀」が作られる時に、この辺の血縁関係は整理して近い血縁関係だったと位置づけ直されている可能性がある。「古事記」と「日本書紀」
を比べると、この皇統譜の継承関係は全く一致する。全く一致するから、そういうものは古くからキチンと残されていたのだと、これまで考えられていた。実はこういう継承関係というのは政治的立場によって変化しやすいものである。
全く一致するというのは、同じ時期に作られたので一致するのだという理解の方が説明しやすい。つまり「古事記」「日本書紀」に記されている皇統譜の継承関係は、気を付けて扱わねばならないのである。
「日本書紀」に見る初代天皇
こういう状況なので大王の始祖、王権の始祖を考えるのは、大変困難。そこで初代天皇として描かれている人に注目する。「日本書紀」では初代天皇は はつくにしらす すめらみこと と呼ばれる。つまり初めて国を治めた天皇という意味である。
はつくにしらす すめらみこと が2人いる。
所が「日本書紀」を読んでいくと はつくにしらす すめらみこと という人物が2人出てくる。一人は初代天皇と位置づけされている神武天皇である。神日本磐余彦 彦火々出見命(山幸彦) というのが名前である。初めて国を治めて名乗った天皇として記されている。所が「日本書紀」の崇神12年9月に 記述があって はつくにしらす すめらみこと とある。ここでは崇神天皇が はつくにしらす すめらみこと とされている。何故初めて国を治めた天皇が2人いるのかということについて、整合的な説明が求められる。
まず神武天皇
まず神武天皇から考えてみる。神武天皇は初代天皇としての名は知られているが、どういう人物なのかについては知られていない。神話において天孫降臨、天照の命令で日本列島に下ってきた瓊瓊杵尊の曽孫であり、筑紫で生まれ日向から大和に軍を動かし、辛酉 しんゆう の年の正月朔日に即位したと記されている。正月朔日に即位したというのが、作為性を感じざるを得ない。これを含めて「日本書紀」を作った人が、初代天皇を称えようと気持ちが現れている。因みに現在の記録というのは、いわゆる東征を行って大和に入って即位したという所までで、ほとんどが表されており、在位76年で死去したとされているが、即位後のことは記されていない。
所で神武天皇の父母について考える。この人は系譜のみの存在で何をしたということはない。
一方母の玉依姫も海の神の娘として生まれるものの、何か行動したという話はない。むしろ玉依姫の姉の豊玉姫の方が、神話的物語に語られていて、それに付随する存在である。
皇統譜 五世の孫
神武天皇の父母というのは名前だけの存在で重視されていないことになる。しかし天皇の系譜を考える上でこの系譜は大きな手掛かりを与えてくれる。天照から神武までの系譜を並べてみると、天照の次に天之忍穂耳命、その次は瓊瓊杵尊、その次に 火遠理命、その次に 鸕鶿草葺不合尊、そして神武天皇という系譜になる。この系譜を見て重要なのは、神武天皇は天照の五世の孫であるということである。五世の子孫であるという概念は新しい概念である。というのは
「古事記」「日本書紀」が編纂されたのと同時代に律令という法律が作られた。その律令の概要は次の通りである。
天皇の兄弟や息子は親王になる。親王から五代目になると皇族から外れる。これは天皇から数えて六代目になると皇族から外れるということで、五代目までは皇族である。皇族であれば皇位継承に関わることが出来る。この五世というのは血筋を継承することの出来るぎりぎりのラインであった。五世の子孫というので、重要なのは継体天皇である。継体天皇は応神天皇の五世の孫である。これは恐らく「日本書紀」に記されているようなことから、非常時の観点からクローズアップされた可能性があった。天照から神武天皇までの系譜というのは、昔から言い伝えられてきものをそのまま記したというのではなくて、天照皇祖神である天照から数えて五代目から天皇になりえたという位置づけになる。
さて天照と神武天皇の間にある神々について様々な意図が込められている。
祖母と孫の関係 神武天皇と瓊瓊杵尊、持統天皇と軽皇子・文武天皇
天之忍穂耳命 は、天照と素戔嗚の 誓約によって生まれた神であり、最初に葦原中國への天孫降臨の命令を受けた。神話は幾つかのバ-ジョンがあって違いが発生するが、その中で天之忍穂耳命は命令を受けたが、引き返して行われなかったと記している。それを引き継いだのがその息子の瓊瓊杵尊である。瓊瓊杵尊と天照は祖母と孫の関係である。そしてこの関係は、「古事記」「日本書紀」が編修されている初期の段階・8世紀初期の天皇を見ると持統天皇とその孫の文武天皇という関係に行き当たる。つまり当時の天皇家は、天武天皇と持統天皇から生れた草壁皇子が亡くなって、その息子の 軽皇子 後の文武天皇を即位させるというのが重要問題であった。その為には 軽皇子は16歳であるがなるべく早く即位させる必要があった。その為には天武天皇の他の皇子たちを黙らせる必要がある。それが出来るのは持統天皇しかいなかった。持統天皇が譲位して、軽皇子が天皇の地位について、太上天皇として後見するという体制を作り上げる。天皇の地位を祖母・持統天皇から孫の軽皇子に引き継がせるというのは、天孫降臨において、葦原中國を支配しなさいと天照が命じて、孫の瓊瓊杵尊が実現するというのと一致する。現実の政治的関係を神話の中に入れることによって、現実の方を神話にこう書いてあると言って、正当化する狙いが見える。
つまり日本神話、特に天孫降臨の所には、かなり政治的な意図を含んでいる。何もない所から話が作られた点からいうと、天孫降臨神話は世界中にある。そこに祖母と孫というような要素を組み込んで政治的配慮をしたのである。
海の山の合体
さて瓊瓊杵尊は天孫降臨した後、木花咲耶姫と結婚する。姉の美しくなかった石長比米と結婚していたら、人間の寿命は岩のように長くなったが、花のようにきれいだが短い寿命の木花咲耶姫と結婚したので、人間の寿命は儚くなったという。そしてこの夫婦の息子は、第一子火照命(海幸彦)、第二子が火須勢理命、第三子が火遠理命(山幸彦)である。釣り針を争って争いが発生して、弟・火遠理命(山幸彦)が兄の火照命(海幸彦)を懲らしめてメデタシめでたし という話がある。弟・火遠理命(山幸彦)こそ天皇の先祖となるので、火照命(海幸彦)は九州南部の隼人と呼ばれる異民族の先祖になると語られる。つまり日本列島に住む人々は天皇家に奉仕しなければならないという考え方が、7世紀後半から8世紀にかけて出てきた。それを神話的に作り上げたのが、この部分だということである。そして火遠理命(山幸彦)も海の神の娘を妻とする。この様に見ていくと誰を妻にするのかというのにも、興味深いことがある。
火遠理命(山幸彦)とその息子の鸕鶿草葺不合尊は海の神の娘と結婚している。また瓊瓊杵尊は大山祇神の娘、つまり山の神の娘と結婚している。つまり山と海とのつながりを繰り返している。この山とか海というのは、人間のいる世界とは別の世界だと、古代では考えられている。天皇の先祖はそことの婚姻関係を繰り返す。それによって海も山も支配する存在になる事を主張している。神武天皇の系譜を見ていくと、神話は天皇を繋げる存在として重要な役割を担っている。それは意図的にそういう役割を負わされているのである。
天皇の名前 初代としての神武天皇・崇神天皇
神武天皇が即位した年は、辛酉(しんゆう)の年とされる。この年は天命が改まり、中国では新しい王朝が建国されるにふさわしい革命の年であるとされている。つまり「日本書紀」の編者は、神武天皇の支配が始まった年と、中国の天命思想を流用して、辛酉の年と位置付けている。つまり日本古来の考え方である、海と山を支配するという考え方、さらには中国の天命思想、様々な思惑を取り込んでいると言える。神武天皇の跡を継いだ綏靖天皇以下八代の天皇は、欠史八代と言われる。現在よく用いられている神武や綏靖といった漢字二文字の名前は、漢風諡号といい、奈良時代の半ばに定められた中国風の呼び方である。つまり奈良時代前半以前にはそのような呼び方は存在しなかった。和風諡号が用いられていた。欠史八代の和風諡号には、オオヤマトやタラシヒコ が繰り返し使われている。律令国家成立期の文武天皇や元明天皇の和風諡号にも、ヤマトヒコやタラシヒメという名が出てくる。
ヤマトヒコやタラシヒメというのは、7世紀や8世紀の初めにかけて、天皇の称号としてよく用いられていたものであり、欠史八代にその言葉が用いられているのは、その頃に作り出されたものであるからだろう。この様に見ると、神武天皇や欠史八代は、「日本書紀」が編纂されている7世紀後半から8世紀初頭において、新しくつけ加わったものだとはっきりする。
一方もう一人の はつくにしらす すめらみこと である崇神天皇についても見てみたい。「日本書紀」によると、崇神天皇の時の出来事として、大神神社の縁起、四道将軍の派遣、前回も出てきた箸墓古墳の造営、出雲の神より鑪の献上、農業の為に池を作ることなどが記されている。このうち、大神神社は巻向の地にある日本最古の神社として知られている。箸墓も此の近くである。この様に見ると、崇神天皇が巻向の地に深い関りがある天皇として描かれていることは間違いない。纏向遺跡というのは2世紀の終わりから出現して、3世紀の終わりから4世紀まで続いていた遺跡と言われる。丁度古墳時代が始まった頃に該当する遺跡で、大和政権との関りを考える上で、最も重要な遺跡である。
それでは巻向と結び付けられている崇神天皇は、初代天皇として実在したと見ていいのか。この点については、結び付けられたということと、実在したということは区別して考えねばならない。それを表すのが四道将軍の記事である。四道将軍とは、崇神天皇が大和の外側に四人の将軍を派遣して、各地を平定したという物語である。北陸には大彦命、東海には武渟川別、西の道には吉備津彦命、丹波には丹波道命が派遣された。なお大彦命は、さきたま稲荷山古墳の鉄剣名に、オワケの上祖、 オホヒコ という人物が現れている。オホヒコ 自体は虚構の人物であるが、5世紀後半頃にすでに王権と地方豪族を結びつける役割を担っている人物であり、その人物が日本書紀にまで名を残していたということになる。四道将軍は「日本書紀」の文脈から読むと、大和政権の軍事拡大の反映という位置づけである。
3世紀後半から5世紀にかけて大和政権が軍事的拡大で勢力を広げて行ったということは、成り立たないということは話した。つまり四道将軍の話は、大和政権が各地を支配して統治することを正当化する。
そして天皇が君臨することを強調する物語として作り出されたフィクションとして理解すべきである。そうした記事を含み込む崇神天皇は二つの側面を持っている。一つは始祖の記憶で巻向と結びつく人物である。もう一つは8世紀的な天皇支配の正当性を持っている側面である。その二つの側面を統合して作り上げられた実在しない天皇として、崇神天皇は見なされるべきである。但し崇神天皇の二つの側面の内、巻向遺跡や周辺は、倭王権の始まりの地として結び付けられた点は古くから引き継がれた記憶として認めて良い。
「コメント」
良く聞かないと論旨がよく分からない。