250128⑤「前方後円墳の出現」
まず古墳時代の始まりについて考える。古墳時代とは何かという時に、古墳が沢山作られたということでは説明が不十分である。古墳 特に前方後円墳と呼ばれる古墳が、当時の社会において政治的権力を表すものとして機能していた時代である。そういう位置づけで語ることが出来る。
前方後円墳の出現 弥生時代→古墳時代
考古学的観点からは、古墳時代の始まりはいつになるかというと、前方後円墳が出現した時ということになる。それでは前方後円墳が出現した時期は何時か。現在の所3世紀の半ばから後半であると考えられている。昭和の時代は4世紀になると考えられていたが。これが弥生時代との繋がりを考える時に重要になってくる。卑弥呼が亡くなったのは248年。そしてその後に、卑弥呼の一族の女性である壱与が活動していたのが、260年頃。この様に考えると、前方後円墳が出現した時期というのは、まさに卑弥呼が死んだ直後あたりから、壱与が活動していた時期ということになる。
ここで弥生時代が終わり、古墳時代の始まりが問題となってくる。
さて、弥生時代と古墳時代というのを少し違った側面から見てみると、弥生時代というのは稲作を中心とした生産経済が始まった時代ということになる。その結果として各地に権力が発生する。権力が発生する中で身分の分化が起こり、社会が複雑化する。古墳時代になると各地の権力が前方後円墳を作ることに着目し、前方後円墳を中心とする政治的秩序が形成されていく。
弥生時代の墳丘墓 方形周溝墓 四隅突出型 双方中円形墳丘墓→バラエティに富んでいる
さて、古墳は土を盛りつけたマウンドであり、遺体を葬ることによって巨大な墓ということになる。しかしそれ以前の弥生時代にもマウンドが作られていて、弥生時代に作られた墓と古墳時代に作られた墓は少し性質が違ってきている。そこの部分を注意しなければならない。弥生時代に盛り土された墓のことを墳丘墓という言葉で区別することとされている。ただこれも慣例的に弥生時代の墳丘墓も古墳と呼ぶこともある。その代表的な事例が纏向遺跡にある ホケノ山古墳 という弥生時代後期 3世紀の前半に造営された墳丘墓である。これを古墳と称することもある。厳密に古墳という言葉を使わない人もいるので、それは慣例に従って弥生時代のものであっても、古墳という言葉も使われている。
さて弥生時代と古墳時代の盛り土の墓を巡る違いというのは何か。それは実は地域的な違いという所になる。弥生時代であれば、近畿地方には 方形周溝墓 と呼ばれる四角形の溝を周囲にめぐらした墓が作られた。所が日本海沿岸では、四隅突出型と呼ばれる、四角い形の四つの隅が突き出た様な形の墓が作られる。中には吉備地方の双方中円形墳丘墓と呼ばれる、円墳の両脇に四角の突起がくっついているような、団子に串が刺さっているような形を持っているような、独特な形状を持つものもある。
この様に墳丘墓の形状というのは、地域ごとに違いがあって、バラエティに富んでいるのが、弥生時代の特色である。弥生時代においては地域毎の独自性が強かった。連合体を組んでいても恐らく墓の形については、それぞれの地域の特色を引き継いで作っていて、統一されることはなかったのである。この様に考えると邪馬台国の時代の連合体の国々の結びつきというのは、独自性の方が強かったのではないか。だから弥生時代は各地の権力が基本的にはそれぞれ自立している。邪馬台国を軸とした連合体というのも、地域の独自性に基づいて結びついていたと言える。
古墳時代の墓 全て前方後円墳 連合体間の繋がりが強くなる。→大和政権の誕生
所が古墳時代になると様相が変わる。各地の首長は、全部前方後円墳を作るようになる。つまり連合体に属している首長たちは、同じ形の古墳を作るということに合意していたと考えられる。自立性よりも一体制の方を優先し始めている。言い方を変えれば連合体のなかで政治的纏まりが進んでいると評価することが出きる。整理すると、卑弥呼の頃の連合体と、3世紀後半の古墳時代の連合体は、政治的結合性・繋がりにおいて大きな差があると言える。
それがどこで起こったかというと、3世紀の半ばに皆が共有する形の古墳である前方後円墳が現れたという所に大きな変革があったのである。この3世紀後半の政治的同質性が高い連合体の盟主こそが、大王と呼ばれる人でありその政権を大和政権と呼ぶ。
前方後円墳 最初の前方後円墳 箸墓古墳
さて日本では円形の盛り土と四角形、概ね台形の形となるが、その盛り土が繋がっている特殊な形をした古墳が、3世紀半ば以降造営されるようになるのが前方後円墳である。この前方後円墳の形というのは、古墳を造営することが出来る各地の豪族たちの中でも、その地域のリ-ダ-となる代表者のみが作れる特別なものであった。同族であれば誰でも作れるものではないし、そこには大和政権との繋がりが重視されたであろう。
さて前方後円墳の名前の由来は読んで字の如く、前が方、後ろが円の古墳である。しかし四角形が前で、円が後ろという考え方もあった。実は前方後円墳の名前の由来は、江戸時代の儒学者で寛政の三奇人の一人とされる蒲生君平によって名づけられた。この人物は天皇陵を歩き回って、その大きさを調査し「山陵志」を書いた。その中で彼は前方後円墳について、四角形と円形が接合しているので、前方後円墳と名づけたのである。彼は何故、前が四角で後が円だと考えたかというと、江戸時代当時大きな古墳の中には車塚と呼ばれるものが各地にあった。何故車となるのか蒲生は考えた。その時に古い車というのは馬車が一般的であり、馬車は上から見ると馬の部分が四角に当たって
人が乗る部分が丸くなっている。そこから前が四角で後ろが円であると考えた。但し蒲生の考え方は当時としては合理的であったが、歴史的に見て成り立たない。そもそも「魏志倭人伝」に、日本列島には牛や馬はいないと書かれている。馬がきたのは4世紀後半~5世紀にかけて渡来人によって持ち込まれた。つまり前方後円墳が出現した3世紀後半に、馬はいるはずがない。蒲生の想定は当たっていない。
箸墓古墳
さて最初の前方後円墳が箸墓古墳とされているのはよく知られたことである。箸墓古墳は奈良盆地南東部の巻向古墳の近くにあり、3世紀半ばの造営となっている。箸墓古墳のことは「古事記」にも記されている。三輪山の神と結婚した大和倭迹迹日百襲姫が、神である夫の姿を見ようとした所、蛇の姿を見てしまった。彼女は姿を見てしまったことを後悔して自殺して作られたのが箸墓古墳であるとされる。また「日本書紀」は、箸墓古墳について、 昼は人が作り夜は神が作った と記している。つまり神が作ることに関わった特別な古墳だという意識が「日本書紀」の時代にも残っていた。
この3世紀半ばの箸墓古墳こそ、卑弥呼の晩年から壱与の初期に当たる古墳である。そして「日本書紀」にも女性が葬られているとする伝説があって、それらが組み合わさって卑弥呼の墓と呼ばれることになる。
この箸墓古墳の長さは墳丘の長さが180m、後円部の直径が157m。「魏志倭人伝」では卑弥呼の墓について、径 百余歩 と記されており、この 百余歩 というのは150mになるので大きさ的に近いと言える。だからと言って卑弥呼の墓だと結論を急ぐには注意しなければならない。
前方後円墳の成り立ちの諸説
先程前方後円墳の形について、馬車の形だというのは誤りであるというのは説明したが、それに対して外にどういう説明があるのか。
例えば弥生時代には、甕棺と呼ばれる水を入れる甕の中に遺体を入れて、埋葬するということやっていた。それを横から見ると、前方後円墳の形になるのでそれを模したのではないかとの説もある。又早い段階の前方後円墳は山の裾野の丘陵の地形を利用して作っているのが多くあった。丘陵の形に沿って作ると自然と前方後円墳の形になるという説もある。更に丸い形の古墳の正面に祭壇が設けられていて、祭壇の部分が四角い盛り土に変化して前方後円墳になったという説。外にも円墳の部分には身分の高い人が葬られていて、家来の人達がその廻りに四角い墓で葬られていた。
つまり、丸い墓と四角い墓は近接して作られていたのが、後にくっついて前方後円墳になったという説。之まで様々な説があったが、特に注目されるのは、中国の影響があったという考え方である。魏が滅亡した後に、晋という王朝が出来るが、その歴史書である「晋書」に 倭人来りて朝貢す という記録がある。そしてそのすぐ後に、円丘、方丘を南北の方角に合わせたという記述がある。円丘、方丘というのは後の時代には、天壇地壇と呼ばれるようになるが、中国の皇帝が天を祀る祭祀、地を祀る祭祀に、この円丘、方丘が用いられる。因みに円が天を表し、方が地を表す。中国では天円地方といって点は丸い、地は四角いという表し方である。そして266年に晋にやってきた倭人がこの祭祀を目撃して、円丘と方丘を合わせた古墳を編み出したであれば というのである。非常に興味深い説明である。但し倭人が来たという記述と、円丘と方丘を合わせたという記述はそれぞれ別の記事であり、倭人が天を祀る祭祀に参加したと読み取ることは出来ないだろう。ではどのように考えれば良いのか。実は纏向遺跡では、箸墓古墳より前にホケノ山墳丘墓もしくはホケノ山古墳と呼ばれる、前方部が非常に小さい古墳がある。これを帆立貝式古墳と呼んだりするが、それが3世紀半ば頃からいくつか作られるようになった。この前方部が大きくなる事によって、前方後円墳が成立したと考えられている。
橿原市 瀬田遺跡 前方後円墳の原型
では帆立貝式古墳はどのようにして実現したのか。それで注目されるのが、橿原市で発掘された瀬田遺跡である。この瀬田遺跡では 円形周溝墓 と呼ばれる、丸い墓の周りに溝を掘った墓が作られている。そして円墳と堀の外側とを行き来するために陸橋が作られた。所が陸橋の部分にも溝が作られるようになってしまい、結果的に円墳と陸橋の部分は、その周りから堀で遮断されるような形になる。そうすると円墳に陸橋の四角い部分がくっつく。それが成長していくと、帆立貝式古墳になる。更に方形部が成長すると、前方後円墳になるというプロセスが考えられる。この様にみると、橿原市で見つかったもの、もしくは纏向遺跡のホケノ山古墳の帆立貝式古墳などから出来たということで、前方後円墳というのは形だけ見れば、近畿地方の特色を引き継いでいることになる。それは日本列島内における近畿地方の優位性と見えなくもない。しかし気をつけなければならないのは、前方後円墳は近畿地方特有の特徴で成り立っている訳ではないということである。
古墳に見られる各地方の影響
例えば古墳を作ったら、その古墳の側面には円筒埴輪と呼ばれるものが並べられている。この円筒埴輪というのは、弥生時代後半に吉備地域で 特殊基台と呼ばれるものが作られており、それが変化したものが円形埴輪であると言われている。つまり形自体は近畿地方の影響が強いかもしれないが、古墳を装飾するための道具立てというのは、吉備地方の影響を強く受けていると言える。更に古墳には、崩れたりしないように石を張り付ける。この石を張り付けることを、葺石というが、これは山陰地方で多くみられる技法である。また副葬品の品目については特に銅鏡を納めるのは九州北部の影響であると言われる。この様にみると前方後円墳というのは、ある地方に現れたものが各地に広がっていったものだは無くて、むしろ弥生時代の各地の墳丘墓の特徴を持ち寄りながら、合わせて統合的に作られたものであり、それは連合体が色々な特色を持ち寄って連合体の象徴として作り上げていったものとして理解できる。
さて前方後円墳は3世紀後半から4世紀初め頃にかけて、東北地方南部から九州地方南部にかけて広範囲に作られるようになる。これは実は大和政権の成立を考える上で、重要な問題である。それというのも、大和政権が近畿地方から徐々に拡大していって、最終的に東北地方から九州地方に辿りついたというのではなくて、一斉に変化し始めている。
つまり広い連合体が3世紀半ばから後半にかけて、これに加わった人々が前方後円墳を作り始めたということになる。
「古事記」「日本書紀」を読むと、日本武尊みたいに各地を征伐して大和政権の領域を広げたというイメージが語られているが、前方後円墳の現われ方というのは、各地を侵略してそこに前方後円墳を押し付けるというものではないということになる。
前方後円墳体制
さて前方後円墳は誰にも作ることが出来るものではなくて、同族の中でも有力な主張のみが作れるものであることは話した。そして古墳を作れなかった有力者は、前方後方墳更にその下の円墳、方墳のように、前方後円墳をトップに作ることが出来る古墳の形によって序列があったとする学説が 都出比呂志 考古学者 によって提起された。
これを 前方後円墳体制 という。政治的序列を重視するという考え方においては、前方後円墳を頂点として上下関係を強く見るということになる。これを推し進めて理解すると、前方後円墳はヤマト政権が許可を出すことによって作ることが出来るということになる。その際には同じ形になるように、設計図的なものがあったと思われる。実際、大きさは違うけれども左右を合わせてそっくりだという古墳が各地で見つかっているので、作り方が各地に伝えられていたというのが考えられる。この考え方を更に推し進めると、大王は各地の豪族に対して、前方後円墳の造営を認めるか否かを判断する。
認めた場合には、前方後円墳を作ることが出来る人を地方に派遣する。指導するという形で有利な立場を得ていたのであろう。こうして大王が豪族を支配する体制が形成される過程が古墳時代に起きた。これを初期国家論と呼ぶ。しかしここには違う考え方も出来る。それは大きさこそ違うが大王も地方豪族も、同じ形の古墳を共有するとなる。つまり大王しか作ることが許されてない古墳の形というものがあるのなら、これは大王が突出した権力を持っていて、豪族とは違う存在だったと説明できる。しかし実際の所はそうではない。大きさが違うことはあるが、それは力関係ということであって、質的にことなるということにはならない。そうみると大王は連合体の盟主としての立場は確保するものの、豪族の上に君臨する君臣関係を築き上げるまでには至っていなかったのであろう。つまり古墳時代に前方後円墳を大王も豪族も作っている時代というのは、まだまだ連合体的な側面が残されている時代だったのである。
「コメント」
同じ様な各地の前方後円墳の説明は理解できた。連立政権なんだ。