250121④「卑弥呼の実像」
卑弥呼の記述は「魏志倭人伝」の外に「後漢書倭伝」などにも出ているが、資料的には「魏志倭人伝」が一番信用できる。「後漢書倭伝」などはそれを二次的に加工している可能性が高い。よって卑弥呼については「魏志倭人伝」に則って考えていく。「魏志倭人伝にどのように」記されているのか。
その部分を読む。
卑弥呼に関する部分
倭国は乱れ、相攻伐して年を歴る。すなわち、一女子を共に立て王となす。名は卑弥呼といふ。
卑弥呼はここで登場する。
鬼道に事へ、よく衆を惑はす。年、すでに長大にして、夫婿なし。男弟ありて国治むるを佐く。
この辺りは卑弥呼がどのように政治を行っていたのか、その身辺はどうだったかということについて、即位後のこととして読み取ることが出来る。鬼道 というのは、呪術の一種、中国でも太平道と呼ばれる宗教が鬼道という言葉で書かれていることはすでに話した。よく衆を惑はす。とあるが、中国は当時儒教中心となっていて、 怪力乱神を語らず という言葉がある。怪しいまじないみたいなものは、批判の対象となっていた。そのような解釈でここは書かれている。
ただ当時の倭の民衆にとっては、単なるまじないではなくて、支配する王の託宣として受け入れていた。
年、すでに長大にして、夫婿なし。 ということで、年齢が老年になっても夫はいなかった。男弟ありて国治むるを佐く。
ということで、弟がいて国を治めるのを補佐していた。
王となりてより以来、見有るもの少し。婢千人を以ひ、自ずから侍る。
ということで、ここは即位後の卑弥呼はどういう状況だったか ということが記されている。卑弥呼の近くに行って、卑弥呼を見かけた人は少ないということが書かれている。この辺は文化人類学的な王の在り方に関わってくるので、後程話す。そして 婢千人 ということで、身の回りの世話をする召使が
千人いた。これは邪馬台国の人口数万人しベルなので、如何なものかとされる。
ただ、男子一人有りて、寝食を給し、辞を伝へ、居所に出入りす。
殆どの人が卑弥呼に会ったことが無い中で、男子一人だけ飲食を卑弥呼に持って行って出入りしていたとある。更に
宮室、楼蘭の城柵は厳く設け、常に人有りて、兵を持ち守衛す。
この部分は卑弥呼というよりは、卑弥呼のいる場所の記述で、これは吉野ケ里遺跡の状況とよく似ている。よって一時期は吉野ケ里遺跡と邪馬台国の関係が取りざたされたが、現在は邪馬台国そのものではないだろうとされている。
その後卑弥呼が外交使節を派遣したという所は省略して、
その八年、太守、王頎官に到る。
ということで、この 王頎 という人物は帯方郡の長官である。その人が着任してきた時に、
倭女王卑弥呼と狗奴国男王、卑弥呼呼素とは和せず、倭載斯鳥越等を遣はし郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史、張政を遣はし、因って、詔書、黄橦を齎し、難升米に拝仮し、激を為りてこれを告諭す。
ということで、卑弥呼は狗奴国と戦争になったことを帯方郡に報告してきたと記されている。ここは卑弥呼個人というよりは、卑弥呼を中心とした連合体と、狗奴国連合体が争ったのであろう。この様な卑弥呼からの報告に対して、 王頎 という帯方郡の長官は、塞曹掾史、張政を遣はし、因って、詔書、黄橦を齎し、難升米に拝仮し、激を為りてこれを告諭す。
と記されていて、帯方郡から役人を派遣した。張政 という名で、その時の魏の皇帝の詔の書かれている文書、黄橦 黄色い旗 魏のシンボルカラ- それを 難升米 に授けて、 激 周辺国に対して邪馬台国に味方しなさいと 言う告知を行った。この事が帯方郡トップの 王頎 というのは、卑弥呼との柵封関係に基づいて、卑弥呼を支援する行動をとったことがはっきり示されている。所が
卑弥呼、以って死す。冢を大きく作る。径は百余歩なり。徇葬者は奴婢、百余人なり。
ということでこの段階で卑弥呼は亡くなる。冢を大きく作る。この 冢 というのは土篇をつけると 塚 という字になって、土を盛り上げて作ったマウンドということで、古墳のような墓ということなる。大きさは百余歩、殉死は百人以上 ということで、卑弥呼についての記述は終わる。
まとめ
「魏志倭人伝」から卑弥呼について分ることは以下のようになる。
・卑弥呼は倭国の乱の後に即位した。
・鬼道を用いる。魏との外交の時にはすでに老境であった。
・魏から 親魏倭王 に柵封されている。
・弟がいる。
・会ったことのある人は少ない。
・死後大きな墓が作られた。
こうした記述の中でインパクトがあるのは、鬼道を用いる、姿を余り見せない、見た事のある者は少ない ことなどが注目される。呪術的な王としてのイメージが強い。但しそういう側面だけを強調するのは、卑弥呼の半面しか理解しないことになる。卑弥呼は魏を中心とした国際関係というのを冷静に理解している。それを利用できると考えて居たということになる。当時の日本列島の小国は、朝鮮半島の小国とは日常的に交流していたと考えられる。またその中の九州北部の国などは、楽浪郡という中国の出先機関と交流していた。しか中国王朝の都まで行って、皇帝と関係を持つことによって、国内関係を有利にしようとしたのは、師升以外はいなかった。この点、卑弥呼は幅広い視野を持っていたと言える。卑弥呼は鬼道を良くするという点においては、呪術的側面を持っているが、中国との外交を積極的に展開するという点においては開明的であった。この矛盾する二つの側面を同時に兼ね備えていたのが卑弥呼なのである。
卑弥呼の年令
卑弥呼はその即位を最も遅く見積もっても、189年頃であろうと推定される。そこから卑弥呼が魏と外交を行うのは、50年後ということになる。更に卑弥呼が亡くなるのは、その10年後位である。短くとも在位60年ということになる。そうすると「魏志倭人伝」において、 年、すでに長大にして、 と記したのは、卑弥呼と魏に外交使節を派遣した時はすでに60~70歳と思われる。
卑弥呼の登場 連合の主導権
一方卑弥呼の登場については、倭国の乱に際して連合する国々の首長たちが 共に立てて という形で即位している。在位期間を考えると、即位したのは10代と考えるのが妥当であろう。だが10代の少女が王として擁立された時に、自分が中心となる事が出来たかは疑問である。幼くして即位した時に、周りの国々の首長たちが支えることになるので、即位したばかりの段階では、邪馬台国だけでなく周りの国々にも主導権が存在していたと思われる。また卑弥呼の即位について、共に立てて と記されている様に、周りの国々で合意したと読み取れる。つまり何故、卑弥呼は王に選ばれたのかということが問題になる。勿論そこに 鬼道を良くする ということがあるが、それだけではないだろう。
卑弥呼の後継者
卑弥呼の後に男王が立つが内乱が発生して、その内乱を収束させる形で、卑弥呼の一族の女性の 壱与 が即位する。
これには一定の血縁のことが加味されたことは否定できない。但し血筋が王の娘だからという形で考えることには、注意が必要である。卑弥呼の後の男の王に関しては、卑弥呼との血縁関係が記されていない。だがその後の 壱与 は、卑弥呼の一族であると説明されている。常に卑弥呼の一族が即位しているのであれば、その都度卑弥呼の一族であると書く必要はない。ある程度身分が高いなどの状況が考えられるが、王になる家柄が存在していたかもしれない。
古代日本の政治的仕組み
これは古代日本の政治的仕組みそのものと関わってくる。というのは古代日本は政治的リ-ダ-を作り出す時には、指導者を出すグル-プというのが二つか三つくらい存在する。それぞれの代表者の中から、最もふさわしい人間を選び出すという仕組みがあった。例えば5世紀の倭王権については、古事記、日本書紀では天皇家の血筋が出来上がっていて、それに基づいて代々継承していたと記されている。しかし考古学的にみると、前方後円墳を古市古墳群、百舌古墳群というのが同時期に、
同じような大きさを作り続けている。つまりライバル関係の二つが存在している。その中のどちらかが
大王になるかということが、前の大王が死去した時に問題化するということである。また更に言うと、貴族と地方豪族の間においては、更に下って8世紀の奈良時代までそういった仕組みが続いている。例えば奈良時代の貴族で大伴氏がいるが、大伴氏に限らず一族のリ-ダ-を氏の上というが、これは必ずしも父から息子へとは繋がらず、近い血筋に動くことがある。氏の上というのは世襲というよりは、一族という大きな枠の中で移動するのである。更に地方豪族でいうと、郡というのが国の下にあって、郡司という役が選ばれる。郡司は選ばれる家柄が三つか四つ位存在して、その中から最もその時に相応しい人が選ばれる。場合によっては、持ち回りであったのではないかとされる。この様に
一族だけで独占的に地位を抑えている訳ではない。古い時代になる程、こういう事であったろう。
さて卑弥呼が幼くして即位した時点では、中国からの柵封は受けていないので、恐らく身分の高さもしくは血筋の関係があり、ただそれだけでは不十分なので、そこに鬼道という能力が注目されたと考えられる。当時の邪馬台国では、連合体のリ-ダ-になり得る集団は幾つか存在していて、卑弥呼はそのどこかに属している血筋を持っていたと考えられる。恐らく卑弥呼後に死んだ男の王というのは、おそらく別のグル-プに属していたので血筋については記されていない。その男の王が内乱の中で即位して、その後に卑弥呼の一族の 壱与 の方に戻ってきたので、卑弥呼の宗女という言い方が出てくる。こう考えるとこの辺は理解しやすい。
卑弥呼の政治的存在
さて幼年にして即位したということは、若い時には周囲の補佐を受けていたということになる。ただそれだけであれば、周辺の国々の首長の操り人形ということで、成長した時点で退位もしくは殺されるということもあり得る。所がそうならなかった。卑弥呼は老年まで在位し続けている。卑弥呼は成人して政治的判断を下すことが可能とみなされる年齢になると、連合体の政務の役割を果たすようになったということが見て取れる。 では卑弥呼はどういう風に連合体の政治に関わったのか。卑弥呼を選ぶ時、諸国の首長たちの合意があったと考えるならば、それは連合体に属しているものの合議体みたいなものがあったと考えられる。しかし卑弥呼はそうした合議に関わってはいないだろう。何故なら、卑弥呼を見た人間は少ないと書いてあるので、諸国の王は頻繁に邪馬台国を訪れてはいない。卑弥呼が政治的判断を下すというのは、首長たちの合意によって取りまとめられたもの許可を下すとか
承認をするとかいう形の最終権限であった可能性が高い。日本史において天皇というのは、そういった形を取っている。
卑弥呼の対外活動
豪族たちの合議体が存在して、その結果を大王が判断を下すという仕組みがある。そう言ったものが卑弥呼の時にはあったのであろう。そして成人した時の卑弥呼の役割というのは二つ考えられる。
一つは鬼道による国内の安定化。もう一つは対外関係の代表者である。これは最初に述べた呪術的側面と対外的側面というものを、そのまま役割としていたといえる。そして対外的代表者としての活動であるが、魏の前から対外活動はしていたであろう。それは例えば楽浪郡との交流。或いは後漢の末期に中国が分裂して争う時期になった時に、遼東半島に公孫氏という一族が勢力を持つようになる。この公孫氏というのは3世紀の初めに朝鮮半島の楽浪郡の所まで進出している。恐らく卑弥呼はこの公孫氏と関わりを持っていた。卑弥呼はこうした対外的活動の中で、外国の貴重な品物を獲得する。それを連合体に所属する首長たちに分配しているのである。これをしないと連合体の盟主としての立場には、不満が出て来るであろう。これをキチンとこなしたからこそ、卑弥呼は信頼を勝ち得て、積極的国際交流を進めることが出来た。そして魏との外交の中で、親魏倭王に柵封される。これまでの公孫氏との交流の中では、卑弥呼の立場はある種、連合体の所属している王たちを同定する役割であった。
親魏倭王としての卑弥呼の立場
所が親魏倭王という称号を授かることによって、倭国の首長を超越する、より高い立場に変化することになる。このようなことを卑弥呼はどこまで見越していたが分からないが、結果的にそうなった。卑弥呼の次の王が引き継ぐことが出来たかどうかは、別の問題であろう。卑弥呼は最終的に自分で
判断を下し、実力のある王として君臨していた。そして死ぬまで王であったというより、やめられなかったといえる。ここは王権に関する重要な問題であって、途中で他の王に譲ることが出来るか、また王は止められない存在であるのか、これは現代的にもそうである。現代の天皇制でも、基本的には天皇が途中でやめるということは考えられていない。今の上皇は特別な形で退位したのであるが。そして、卑弥呼については姿を見せない事で神秘性を獲得することが、鬼道に関わったことは間違いない。
また 婢千人 というのは考えにくい。これは中国の外交使節が、卑弥呼に会うことが出来なかったので、邪馬台国側の説明で聞き取ったものをそのまま記したのであろう。
さて男弟が補佐したというのは、卑弥呼が下した政治的判断を表現する役割を担ったのであろう。卑弥呼は人前に出てこないので、その代理の役割を果たしたと考えられる。逆に言うと弟があって、同じ血筋ということであるならば、即位の可能性もあったろう。だが卑弥呼が死ぬまで弟が即位することはなかった。
そしてもう一つ、男子一人が給仕したと記されている。この人物は、従来は弟のことだろうと考えられていたが、弟は男弟と書いてあり、給仕しているのは男子とされている。ここでは明確に区別されている。同一人物であることを言う根拠はない。むしろこの男子というのは、外部との取り次ぎや日常生活におけるサポ-ト、食事を持っていく、言葉を伝えるようなことを担っていた訳で、その言葉を政治の中に実現するのは弟の役割なのである。そしてもう一つ、卑弥呼は夫がいなかった。結婚しないというのがどういう事情なのかは分からない。ただ非公式のパ-トナ-みたいなものがこの男子だったのではないか。
卑弥呼の死
247年に狗奴国との戦争になった事を魏に報告をした。これを受けて帯方郡から 張政 が派遣されて、皇帝の詔、旗を渡し諭した。張政 が滞在中に卑弥呼は亡くなった。この一連のことから卑弥呼の死は、最後の魏への使節派遣から隔たっていない。248年頃であろうか。卑弥呼が亡くなった時に、塚に当たる墳丘のある墓を作っている。その具体的形状は分からないが、当時の有力首長は墳丘墓を作っていたことからすれば、卑弥呼が大きな墓を作ったというのは特におかしな訳ではない。ただ、徇葬者は奴婢、百余人なり とされている。しかし古代日本において 殉死の風習というのは確認されていない。卑弥呼に会えないという中で、中国側の理解が混乱しているのかも知れない。この様に卑弥呼の王権というのは、後の日本古代とも類似する所も、しない所もある。特に若くして即位するというのは、奈良時代までは天皇においては発生しないので、違う所である。その違う所と似ている所をどう結び付けるかによって、邪馬台国の時代から大和政権へと経過を考えることが出来るようになるのではないだろうか。
「コメント」
「魏志倭人伝」を、これ程ちゃんと原文で読んだのは初めて。また邪馬台国所在地部分を読まない講義も又珍しい。