250114③「邪馬台国連合とは何か」
中国から 倭 と呼ばれた 「漢書地理志」、「魏志倭人伝」、王充の書いた「論衡」
今回は邪馬台国連合と呼ばれることも多いが、それが一体どういうものなのか、その前に邪馬台国連合との関りで、倭国とか倭とは何なのかということについて考えていく。まずそもそも日本のことを何故倭と呼ぶのか。倭、倭国と呼ばれていて、そこから日本と国名を変えた。これは大体7世紀から8世紀と言われる。これもはっきり何故変えたというのも分からない。でもその前に中国から倭と呼ばれていたのは、「漢書地理志」の中で 夫れ楽浪海中、倭人あり。
分れて百余国と為る 歳時を以って来り献見す とあり、もしくは「魏志倭人伝」に 倭人あり と書かれていたことで分かる。何故 倭と呼ばれたかは分からないが、ただ中国の資料に 倭 と出てくるので、中国は 倭 というのをどう理解していたのかということを考えねばならない。日本列島としての 倭 について、中国で書き記している歴史書、「漢書地理誌」 が最も古いものだが、それよりも国とか民族としての 倭 はないのかというと、そんなことはない。いくつかの地名もしくは国名として「漢書地理誌」とかそれ以前の書に載っているのでいくつか紹介する。
「論衡」(27年~1世紀の終わり頃)
後漢の王充の書いた「論衡」(27年~1世紀の終わり頃)、丁度奴国の師升がやってきた頃?この「論衡」というのは、合理性を重んじた哲学書みたいな内容だが、その中に倭が出てくる記事がある。
周の時、天下泰平にして、倭人来りて暢草を貢す。白雉を食し暢草を服用するも、凶を除くに能わず。
周というのは、紀元前11世紀~紀元前256年まで続いた王朝である。その周の時に、倭人が暢草と呼ばれる食物を献上した内容である。この話が王充は好きだったらしく、もう2、3ケ所同じ話で、少しずつ内容が変化した内容が出てくる。
周王朝は長期間続いた王朝で時期を特定できないが、実は他の場所で、二代目の成王(BC1042~1021)の時に倭人が薬になる薬草を持ってきたということが書かれている。この 暢草 というのは、香りづけの薬草と呼ばれる植物で、祭の時の酒に用いる。ウコン草のことではないかと言われる。茗荷科。この話は伝説的なので、事実としてはどうかと思うが注目したい所ではある。この書に、倭と一緒に越裳という国が出てくる。この越裳は、ベトナム南方にあったとされる異民族である。暢草と呼ばれる香りづけの植物で、薬用にもなる植物というのは亜熱帯地方から採れるものが多い。日本も奈良時代平安時代になっても、薬草は国内で出来ないので中国から輸入していた。この暢草を持ってきたというのは中国南方とか東南アジアのイメージで語られている。倭と一緒にやってきた越裳というのはベトナム地方ということになるので、倭もそういうイメ-ジを持たれている。
倭は、南の方にいるというイメ-ジ。
優れた女性の伝記を記した資料があるが、その中に明徳馬皇(後漢の明帝の皇后)がいる。優れた皇后だったという代表的な女性である。皇后の地位に昇った時に書かれているが、ここにも他の異民族と共に倭というのが出てくる。この倭というのは日本列島の倭ではなくて、中国南方、東南アジア方面に倭という人々がいるということが語られているのではないか。漢の時代の中国人の頭の中には、自分の周囲には倭という地域・異民族がいるらしい。それは南の方らしいというイメ-ジである。その中に倭というのは燕の南にあって、燕に属しているということが記されている。この様に考えると倭というのは中国に倭という異民族がいたという古い伝承、但しこの古い伝承は日本列島とは全く別に倭というのがあったとなる。最古の地理書に「山海経」がある。古代中国人の伝説地理感覚を示すものとされている。
「山海経」の倭というのは、燕があって、燕の先に朝鮮半島があり、更にその南に日本列島があるという形になっている。
中国に日本列島の存在が知られるようになったのは、楽浪郡が出来て、楽浪郡と倭人が交流するようになったのがきっかけであったと考えられる。当時は地理が分っていないので、燕のずっと南の方に倭があると思っていた。日本列島とはまるで結びつかない倭という地域があって、これを日本列島に当てはめてしまったというのが考えられる。
こうした倭であるが、「魏志倭人伝」の中では使い分けがなされている。一つは倭人と書いてある時の倭、これは恐らく邪馬台国を中心とした連合体だけではなく、連合体と対立している狗奴国などを含めた、文化的に同じ地域のことを倭と呼んで居たと考えられる。「魏志倭人伝」では、対馬から邪馬台国、そして邪馬台国の向こう側という形で倭の連合体を語っているが、その向こう側に狗奴国があるという。それも「魏志倭人伝」の中に含まれている。また「魏志倭人伝」には、邪馬台国には30ケ国あると書かれているが、邪馬台国を中心とした国々を数えると29ヶ国で1ヶ国足りない。
それは狗奴国であろう。
中国の人々は弥生文化圏を倭と見ていた。
この様に当時の中国から見た倭というのは、現代的な言い方で言えば、弥生文化圏全体が倭という地域だった考えられる。一方には卑弥呼が 親魏倭王 という倭の王という風に考えられている。ではこの倭というのはどの範囲を指しているのか。一般的に考えれば、王に任命された連合体の範囲という風に考えられるわけである。ただ、中国が持っている倭のイメ-ジはもっと広いものがあったということになると、倭の地域というのは複数の勢力が存在している。その中で魏に朝貢してくる卑弥呼たちの勢力を倭全体の王として認める。それ以外の魏に朝貢してこないのは認めない。そういう使い分けをしている可能性がある。卑弥呼が属していない国々を滅ぼして、そこを支配下にすればそこを倭として認めるということになっていたのであろう。
倭というのは複数の概念があって、卑弥呼が柵封された倭王というのは、連合体の中だけなのだが、理念的にはもっと広い地域を含んでいるとなる。魏が知っているのは連合体29ヶ国と 狗奴国の30ヶ国で、当然のことながら魏の知らない国々というのもありうるので、それも弥生文化圏の国々として認識していたことはであろう。そこも又確認されれば倭と呼ばれる地域なのである。なお現在の日本はこうした弥生文化圏の外に、北海道や沖縄のような地域も含んでいる。
北海道は稲作が出来なかったので縄文時代が継続して、続縄文時代という区分となる。南西諸島や沖縄は貝塚文化が続いている。
倭種 小人がいる 侏儒国、裸の人がいる 裸國、黒い歯の人がいる 黒歯国
倭国と言った場合、現在の日本全てが倭国ではなかった。この様に倭が存在し、更に「魏志倭人伝」を読んで居ると、倭種と呼ばれる倭と似ている人々が書かれている。この倭種については「魏志倭人伝」には、女王国の東 海を渡ること千余里 ということで、中国から海を越えて千里行くと、海の中の島として存在しているとある。どんな国があるかというと、小人がいる 侏儒国、裸の人がいる 裸國、黒い歯の人がいる 黒歯国、これは事実というより空想的な国々が書かれている。これらは漢代に書かれた「淮南子」などに登場する。だから古い時代の倭というのは、日本列島に無関係に出てくると言ったが、それと同じ様に古い伝承の中にこういった空想的な国が描かれていて、それが「魏志倭人伝」の中に組み込まれている。日本列島と異なる倭というのと、侏儒国・裸國・黒歯国というのは一つの塊としてイメージされていて、「魏志倭人伝」を書く時に一緒に書かれてしまったのであろう。だから倭という言葉は、中国との交流が濃くなって来れば、日本列島のイメージが確立していく訳で、だんだん倭と言えば日本列島となっていく。
まだ「魏志倭人伝」の段階では、漢や古い時代の伝承に基づいて、空想的な国のイメ-ジが残っていて、「魏志倭人伝」の中に入り込んでいたのである。
この様に倭というのは様々なニュアンスがあるのを、倭という言葉で纏められているので、誤解を生じさせるのである。
そこは区別しながら読んでいかねばならない。
連合体とは 「魏志倭人伝」の書き方 邪馬台国の地位 鬼道
その中で、今回の問題である連合体について話す。「魏志倭人伝」の記述を見ると、共に立てて という書き方をしている所から、連合体に参加する国々を束ねる盟主がいたと考えられる。その盟主となる国が邪馬台国であるとされる。ただ連合体のリーダ-というのは、邪馬台国が自動的になるのかというと、そうでなくて連合体に参加している国々が、共に立てる とされている。ここが、邪馬台国を「魏志倭人伝」がどう書いているのかというのが重要なポイントになる。
なお伊都国がNO 2 であったことは「魏志倭人伝」から分る。伊都国の王が重要な役割を担っていたことが書かれている。所が伊都国の王が連合体のリーダ-になったということは全く見えない。つまりNO
2 ではあっても NO
1 になることは出来なかったらしい。そうであるとすれば連合体のリーダ-の地位というのは、邪馬台国が独占していたということになる。一方で連合体に参加する際の、もしくは参加した後の強制力というのは強いようには見えない。むしろそれぞれの国々の自立性の方が高いように考えられる。古墳時代になると大和王権が出現してその中で一つの特徴として、大和王権に参加している豪族たちは前方後円墳を作るということになる。つまり前方後円墳を作ることが仲間であるということを確認している。そう言った仲間とか仲間であることをするのである。
所が卑弥呼の時の連合体にはそのような痕跡が見当たらない。弥生時代の後期の各地の墳墓というのは形がオリジナルに富んでいる。日本海側だと四角突出型、吉備では、大和では・・・・。各地の墓はバラエティに富んでいる。連合体は緩やかな結合だと考えられる。連合体はそうせざるを得ない、つまり自主性が非常に高くて邪馬台国がリーダ-の地位を独占したとしても、他の国々を支配していた訳では無さそうである。そうしたリーダ-としての卑弥呼は第一回でも述べたが、 鬼道によって人々を統治していた。この鬼道が何かというと、三国志の別の所にもこの 鬼道 という言葉が出てくる。張魯伝 という所である。張魯というのは五斗米道という宗教勢力のリーダ-だった人物である。
鬼道を人々に教え、自分のことを主君と名乗った と書かれている。また道々に建物を作って、旅人の為に食料を置いた。ただし食べ過ぎる人がいると、鬼道でその人を病にしたとされる。この鬼道は明らかに呪術的な物として語られている。
卑弥呼のようなリーダ-はどういう立場で連合体を取りまとめていたかというと、宗教的な力が大きかったのであろう。
ただ宗教的な力だけかというと、それだけではなく、後漢、魏との外交では代表者となって交渉を行う。そして魏から貰った貴重品は周りの国々に分け与えた。つまりそういう事をやることで、連合体の王たちが支持を得ていたのであろう。こうした卑弥呼の実情を考えると、連合体のリーダ-と邪馬台国の王を兼ねるというは可能なのかという問題がある。
特に邪馬台国の王は周りの王も関与して 共に立てる ということなので、邪馬台国の中だけで王を立てることは出来ないということになるからである。この様に考えると邪馬台国というのは、伊都国や末盧國と同じ様にその土地にあった国が大きくなって、それが連合を組んでリーダ-になったと考えるよりは、もう少し違う国の在り方だったと考えた方がよいかも知れない。
巻向遺跡が注目を集めているが、集落とかが余りない特殊な遺跡として考えられている。言ってみれば霞が関みたいな所、官庁街で人は余り住んでいない。邪馬台国もそういう集まりであって、それが国と言う形で呼ばれていたのかもしれない。邪馬台国を中心とした連合体というのがどういうものかというと、邪馬台国が圧倒的に強いから周りの国々のリーダ-になったというよりは違う形であろう。周りの国々がそれぞれの特質を持ち寄って、邪馬台国という一つの国を作って、そこを結集核として緩やかに繋がっている。そういう形を考えることが出来るかも知れない。
この場合、倭国王 師升 と卑弥呼が繋がっているのかどうか。血縁的につながっているというよりは倭国王として繋がっているとすれば、師升も同じ様な物なのかというと、そこは言い切れない所がある。この問題は更に考えて行かねばならない。
「コメント」
中国がいう 倭 というイメ-ジが段々湧いてきた。こういう見方が邪馬台国論争に欠けている様に思える。