250107②「邪馬台国の所在地」

「魏志倭人伝」関連の話

邪馬台国の所在地は古代史で最も注目されている話題である。これは日本列島における最初の広域的権力が何処に出現したか、そして古墳時代に出現する大和政権との関りをどのように捉えるのか、こうした問題に関する日本史の最初の大きな問題となるからである。これらの問題は日本列島が政治的に統合されていく手掛りにもなる。

邪馬台国の所在地が何処にあったかという問題は、考古学の資料も活用されているが、その多くは魏志倭人伝に書いてある地理に関する部分を分析して、どこにあるのかということを導き出そうとすることが多い。しかし「魏志倭人伝」の記述から、歴史的な事実を導き出すためには、「魏志倭人伝」がどのような書物であったかを正しく理解する必要がある。

「魏志倭人伝」とは 

今日は「魏志倭人伝」を中心に考えてみたいが、「魏志倭人伝」は、正式には国志中の 魏書第三十巻鳥丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷伝の略称である。魏の歴史書はこの三国志以外には、完全な形のものは失われてしまった。がそれ以外にも複数あった。例えば魚豢(ぎょかん)が編集した「魏略」もしくは王沈(おうしん)が編集した「魏書」。中には前回述べた様に作成途中で、陳寿の「三国志」を読んで破棄されたものもあった。「魏志倭人伝」も正式には「魏書倭人伝」と略称されるべきである。しかし今では残っている歴史書の中に「魏書」というのが幾つもあるので、それを区別するために、又、後の時代になると魏志という呼び方は確かに出てくるようになる。よってこうしたところも踏まえて 魏志 というのが一般化して、現在でも「魏志倭人伝」と呼んでいる訳である。

   作者 陳寿

三国志の著者は 陳寿 という人物である。233年~297年。生まれた頃は三国が争っていた時で、その中の蜀の出身である。出身地であるということは、陳寿の知識人としての意識の中に強く影響していたらしく、作った歴史書は「三国志」以外にもあり、「諸葛亮集益部耆(えきぶき)旧伝(きゅうでん)」という作品も作っている。「諸葛亮集というのは、有名な諸葛亮孔明・蜀の大臣の業績を記している。「益部耆(えきぶき)旧伝(きゅうでん)」は益州という、四川省の地域を指す。蜀は益州を中心とした王朝だったので、そこの地域誌みたいな書物であった。陳寿は30歳になった頃、263年に蜀が滅亡する。しかしその2年後の265年に魏も滅亡する。その後の陳寿の人生は、魏を滅ぼして新しく成立した西晋(せいしん)の官僚として生きることになる。そして官僚として働きながら、歴史家でもあるので、歴史書を作るということで「三国志」を編集する。中国の歴史書は王朝ごとに作られることが一般的である。王朝が滅亡した後でないと、王朝を最後まで記すことは出来ないからである。ただそればかりではなく、王朝が続いて、滅んでいない段階でその王朝が歴史書を作ろうとする、もしくは知識人が作ろうとすることがある。

例えば魏の歴史書に関して言うと、249~294、まだ魏が滅んでいない段階で、王朝から命令を受けて歴史書が編修された。その後第一回で紹介した、王沈(おうしん)が魏の滅亡直前に「魏書」という歴史書、又魚豢(ぎょかん)という知識人が、「魏略」を編集した。陳寿の「三国志」の成立時期は284年と推定される。恐らく陳寿は「三国志」以前に書かれた魏の歴史書を参照或いは継承していると考えられる。そして「魏志倭人伝」もその可能性が高いと言える。この点については後程詳しく述べる。

  九つの異民族 外交について

さて鳥丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷伝」は、九つの異民族のことを載せている。鳥丸(うがん)鮮卑(せんぴ)の外に、扶余(ふよ)、高句麗東沃沮(とうよくそ)挹婁(ゆうろう)(わい)、韓、倭となる。鳥丸(うがん)鮮卑(せんぴ) は、北方民族。扶余(ふよ) は、東アジア。高句麗は現在の北朝鮮。東沃沮(とうよくそ)はその東側。挹婁(ゆうろう) は、シベリアの近く。(わい)は、朝鮮半島の東海岸。韓は、朝鮮半島の南部。倭は日本列島。

記載された記事数を比較すると、鳥丸(うがん) 462、鮮卑 1230、扶余 715、高句麗 1353、東沃沮(とうよくそ) 678、挹婁 276、(わい) 475、韓 1427、倭 1983鳥丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷伝」の中で、倭人伝が最も字数が多い。情報が多いのである。

  「三国志 魏志倭人伝」は、間違いのない、信頼のおける資料なのか

東側の外国との関係について伝えている一方、西や南の外国については記されていない。それでは魏は西や南の外国と外交が無かったかというとそうではない。例えば「三国志」に先行するものとして「魏略」があるが、これは完全な形では残っていない。裴松之(はいしょうし)という人物が「魏略」の一部を「三国志」の付録として載せているが、その中にも中央アジアから南アジアにかけての諸国のことを書いている。つまり魏の歴史書「魏略」は西や東や北、そして南の記述もあっただろうと推定される。つまり東西南北すべての観点について記述していた。所が陳寿は東と北は書いたが、南と西は載せていない。陳寿が書いた「三国志」というのは当時の中国と、その周辺諸国の全てを細かく記そうとしているものではないということが言える。それは何故なのかというと、「魏志倭人伝」も含めてそこに書かれていることは、完全に正確な事と決めつけることは出来ないということになる。「魏志倭人伝」に関して更に言うと、卑弥呼が亡くなり()()が最初に使節を派遣したところで中途半端に「魏志倭人伝」は終わっている。年代にすると249年頃と推定される。では()()249年前後には外交使節を派遣した後、日本列島から魏に対して外交使節を派遣しなかったかというと、決してそんなことはない。実は魏の後の西晋という王朝の歴史書の中には、魏の末期に倭人がやってきたということを書いた記述がある。「魏志倭人伝」はすべての外交使節をきちんと書いている訳ではない。240年代までの部分を取り上げているが、250年以降になると、取り上げなくなっている。実は「魏志倭人伝」だけの問題ではない。「鳥丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷伝」ではそこに記載されている異民族の動向は、遅くとも240年代まで。早ければ220年代までで終わっている。つまり陳寿の書いた鳥丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷伝」

240年代までの記録は載せているが、250年代以降は追加されていないということである。他の異民族に関しても、例えば朝鮮半島東海岸にいた(わい)という意民族は、鳥丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷伝」の 「穢人伝」では、245年にやってきたという記事があるが、「魏史」のそれ以外の部分では、261年にやってきたという記事が存在する。つまり「三国志」の中でも統一が取れていないことになる。ということになると「三国志魏志倭人伝」というのは丁寧に作られた間違いのない、信頼のおける資料なのかというと、書かれていない事や削除されたしまったことが当然あると見なければならない。そしてこのことに気を付けて読まねばならない。ある種、不完全な歴史書であるという言い方が出来る。では何故そんなことが起きたのか。はっきりとしたことは言えないが、歴史書は前の歴史書を見てそれを参照して、場合によってはそれを書き直しながら掲載するということをやっている。そういう事になると、前の歴史書に書いてあることを換骨奪胎して載せることになる。但し前の歴史書が完成した後の出来事が載っていないので、その部分に関しては新しく追加しなければならない。しかそういう作業をしなかったので、中途半端な所で記載が止まってしまうということが起きるのではないかと考えられる。例えば「魏略」に関しては、257265頃成立したと考えられるが、250年代前半とかまでは書いてあるが、205年代後半になると当然同時進行で行われていることなので書いてない恐れがある。それを後に作られた歴史書が、その記述に則って記事を作ってしまうと同じ様に250年代後半の話は乗っていないということが起こり得る。この様に見ると「三国志」自身に資料的限界が存在する。「魏志倭人伝」も例外ではない。

  「魏志倭人伝」を見て邪馬台国に到達できるのか。

実は「魏志倭人伝」だけ見て、邪馬台国に到達することができるかという問題は、邪馬台国の場所が正確に書かれていることが前提にあってこそ辿り着ける訳で、ここに不完全な部分があると当然のことながら、途中が分からなくなり辿り着くことは出来ないのではないかという問題になってくる。

  新井白石と本居宣長の邪馬台国説

さて邪馬台国についてすこし考えてみる。邪馬台国への注目は江戸時代にすでに始まっている。6代、7代将軍の頃に活躍した政治家・新井白石が「古史通(こしつう)(わく)(もん)」という書物を書いている中に、邪馬台国は大和(やまと)と読むのだと指摘している。ただこの大和が奈良の大和なのか、それとも九州の筑後にあった大和という地名なのかについては述べられていない。

又江戸時代後期の本居宣長は「馭戎慨言」(ぎょじゅうがいげん/からおさめのうれたみごと) という書物を書いている。

ここで歴史について言及しているが、その中で卑弥呼が魏に朝貢したことを、九州の熊襲が天皇を(かた)って派遣したものであって、卑弥呼は天皇や王権ではなくて、地方の女酋長だったと述べている。本居宣長は国学という日本文化を重視する学問の巨頭だった。幕末に天皇を重視する尊王運動が起きるが、その出発点となった一人である。そうした本居宣長にとって天皇が中国に朝貢して、家来になったというのは認めることの出来ない事である。その為に卑弥呼は天皇もしくは天皇の先祖に当たるような人物ではなくて、地方の女酋長という嘘をついたのだという形で説明しようとした。だから歴史の解釈というのは単に資料を読んで、こうだというのではなくて、その人の考え方に引きつけて解釈しようとする現象が起きるので気をつけなければならない。

 

 邪馬台国までのル-ト論争 九州説と畿内説

そして明治時代になると、邪馬台国までのルートがクローズアップされるようになる。代表的な説は二つあって、一つは朝鮮楽浪郡からまず九州北部の伊都国まで行って、伊都国を出発点としてそれぞれの国に行くことを説明しているという放射状に読み取ろうとする、東京帝国大学教授 白鳥(くら)(きち)説が一つ。もう一つは方角を「魏志倭人伝」には南と書いてあるが、南ではなくて東の書き間違いであると読み取ろうとする。そうすることで奈良盆地辺りであろうという解釈とした 京都帝国大学教授 内藤湖南の説ということになる。この九州説と畿内説というのが出揃ったことで、現代まで続く議論の原型が作り出された。

 邪馬台国の位置 

この「魏志倭人伝」における邪馬台国までのルート、出発点からどういうル-トなのかということと違う観点で見てみると、「魏志倭人伝」に中で地理的な記述は二つの視点が混じり合っている。一つは

「魏志倭人伝」の中に

その道里を計るに、まさに会稽(かいけい)東治(とうや)の東にあるべし つまり、道筋を計算していくと、邪馬台国の位置というのは中国の沿岸部の会稽(かいけい)東治(とうや)という地名があって、その海の東側辺りであると記している。これは南方ということを強く意識した書き方である。この記述を見ると、「魏志倭人伝」のルートを南へ南へとどんどん行くと、東シナ海になってしまって、困ってしまうというのはよく知られた話である。ただこの「魏志倭人伝」の記述を見ると、陳寿はそう考えていたと見ざるを得ない。つまり東の書き間違いという考え方は成立しない。陳寿は正確な地図を持っている訳ではないので、何らかの資料があって、そこから場所を追っかけて計算していくと、会稽郡と呼ばれる中国の南方の沿岸の東側の海上にあるという計算を導き出したのであろう。

もう一つは「魏志倭人伝」の冒頭の 倭人は帯方東南、大海の中に在り。という記述である。これは帯方郡即ち朝鮮半島を出発点とする北から見たルートということになる。「魏志倭人伝」の国々の記載というのは、帯方郡をスタート地点として、卑弥呼のいる中心地としての邪馬台国までのルートと、連合体に所属している国々を列挙する書き方になっている。

その書き方にはいくつかの変化がある。それは何かというと、まず対馬から伊都国まで。
これは距離とか方角、それぞれの国の情報とか、そこに暮らしている人の風俗とかを詳しく記している。例えば末蘆(まつら)
の部分では 山海に、浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。 と書いてある。また魚を捕らえるのが上手であり、海や川が深いとか浅いとか関係なく潜って魚を獲っていると記述されている。これは極めてリアリティの高い記述と言える。というのは何かというと、この辺りは見た人が書いているという風に見て取れる。これに対して伊都国の次の奴國(なこく)までは、距離とか方角さらには国の状況については記しているが、その土地の習俗については語っていない。更に邪馬台国より先の国々があるが、()()国・・・。ここは国名だけで非常に遠いのでよく分からないという風に説明されている。

この様に非常にリアリティのある記述が出来ている場所。情報がある程度記されている場所、全く分からないとして説明がない場所。この三つに分かれる。この記述の変化を整理すると、帯方郡から伊都国までは、見たことがある人が書いた文章を元にしたと考えられる。見たことがある人は誰かというと、帯方郡から派遣された魏の役人ということが考えられる。陳寿が最終的に文章を手直したとしても、陳寿が自分で邪馬台国に行ったわけではないので、なにかしらのもとになる情報があったはずである。その一つとして、帯方郡から倭、九州北部辺りまで派遣された人物の報告が都まで行って、陳寿が見て書いたか、或いは陳寿以前の人物がこれを見て歴史書を書いて、陳寿がそれを見たというようなステップが考えられる。一方伊都国より先の所は風俗の描写が消えており、この部分に関しては見ていないのではないか ということが考えられる。つまり帯方郡の役人はどこまで行ったのかというと、一般的には卑弥呼に会うために邪馬台国に行ったのではないかと考えられるかも知れないが、実は「魏志倭人伝」の中に伊都国には使節が常駐していて、伊都国までは行ったとは書いてあるが、その先に行ったとは書いてない。つまり帯方郡の使者は、伊都国までしか進めなかった。そこから先は、邪馬台国からやってきた人々が、帯方郡からの役人が持ってきた物とか手紙などを、卑弥呼の所に持って行ったという可能性がある。帯方郡の使者も当然、卑弥呼がどういう人物かとか、卑弥呼のいる邪馬台国までにはどういうルートなのかは、そういった人々に問うたことであろう。つまり伊都国から先、邪馬台国までは、どの程度なのかとか、組織、役職、距離、方角・・・その程度のことは聞き取りで分るので、帯方郡の役人は行っていない。倭人の話を記録して残してあると考えられる。但し倭人がその時どこまで正直に話したかどうかということである。何故かというと地理状況は軍事情報だからである。

邪馬台国から先は帯方郡の役人も関心がないので、どういう国があるかを聞いただけであろう。つまり「魏志倭人伝」というのは、「三国志」もそうであるが、完全に事細かに情報を載せているものとは言い切れない。それは陳寿の編纂もあるし、陳寿が編纂するにあたり利用した元の資料が、そもそもそうであった可能性もある。「魏志倭人伝」に関して言うのであれば、古い伝承に加えて私的な情報、

さらには倭人からの聞き取りなどを加えて文章化して纏めたものと言うことになる。その内容は必らずしも正確とは言い難い所がある。余りロマンがある話ではないが、「魏志倭人伝」から場所を考えることは非常に難しい、或いは不可能であると言わざるを得ないという結論である。

 

「コメント」

 

きわめて正しい結論であると思うし、当然であろう。今まで血眼で議論してきた日本の歴史学者はどういう人々だったのか。その結果として現在の結論に至ったのか。そして常識としてやはり邪馬台国は九州にあったと思う。