241231①「倭国の乱と卑弥呼」
今回は倭国の乱という弥生時代に起きたとされる内乱と、その結果として起こった卑弥呼が即位するという事について話す。先ずそもそも卑弥呼が登場する切っ掛けとなった乱とはどういうものなのか。まずここから考えていく。
倭国の乱に言及している資料は先ず二つある。一つは「魏志倭人伝」。もう一つは「後漢書倭伝」ということになる。この二つの資料は当たり前ではあるが、内容が似通っている。但し異なる所もある。先ず倭国の乱を考えるために、この二つの資料を読み比べてみる。
その国男子を以って王と為し、住まること7・8年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年、即ち共に女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道を事とし、能く衆を惑わす。年已長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む。
倭国の大乱から卑弥呼が登場して、その後の卑弥呼の支配という所まで述べられている。ここに語られているのは、その国は一般的に邪馬台国と理解されているのであるが、元々男子が王であった。それから倭国が乱れ、相攻伐すること・お互いに争う事が何年も続いた。その結果として皆で女子を立てて、王とした。それが卑弥呼であると。その卑弥呼は鬼道という技を使って衆を惑わす と書いてある。「魏志倭人伝」は中国で編纂された資料であって、中国には儒教の考え方があって、こういった怪しい技というのは人々を惑わす怪しいものだという評価の仕方になる。夫がいなくても弟がいて、国々を治めるのを助けていたと書いてある。
次に「後漢書倭伝」を見てみよう。
桓・霊の間、倭国大いに乱れ、再々相攻伐と、暦年主無し。一女子をありて、名は卑弥呼という。年は長にして嫁せず。
鬼道に事へ、能く妖を以って衆を惑わす。ここにおいて共に立て王となす。
ここに書いてある内容は似ている様なフレーズが続いているので、内容的には似ているものであるが、幾つか違う点がある。一番大きいのは見過ごされがちではあるが、「後漢書倭伝」では、倭国大いに乱れ と書いてある。大いに に意味がある。「魏志倭人伝」 では、倭国乱れ である。倭国大乱 というフレーズが使われることがあるが、大乱の場合には「後漢書倭伝」の方が意識して使っているという事になる。どれ程の乱だったのかというと大きな戦いがあって、また何年にもわたって王がいない状況が続いたのであろう。この段階で卑弥呼という女性がいた。この段階での説明の仕方は、このまま読んでいくと、年がいっても結婚せず鬼道に仕え、妖しい技で人々を惑わした とある。
ここにおいて共に立て王となす。と書いてあるので、この書き方だと、卑弥呼というのは即位する前にかなり年を取っていて、そして衆を惑わしていた。そういう年配の女性だったのだけれども、共に立て王となす。 という事なのである。
つまり卑弥呼の即位というのは、即位の結果として鬼道で支配したのか、鬼道を良く使っていたから支配できたのかという所で解釈が分かれてくる。この二つの資料の資料は違いがある。
ではどちらが正しいのか。
「魏志倭人伝」は、魏の歴史書である。魏というのは三国時代の国である。三国時代の前に、後漢という王朝があった。だから歴史的にみると、後漢があって、後漢が滅亡して魏という王朝が出来た。倭国大乱というのがおこった頃には、魏が成立する前で後漢の時代である。だから後漢書の方が詳しく、正しく書かれていると思われがちであるが、気をつけなければならない。歴史書が何時作られたのかという問題である。「魏志倭人伝」を含む三国志であるが、成立時期は284年頃である。書いてある内容から考えられる。卑弥呼が死んだのが、ほぼ250年位と言われているので、この30年位後に書かれた歴史書という事である。
これに対して、「後漢書」であるが、著者は范曄で、398年~446年。当時の中国は南と北に分かれていて范曄は南にあった宗の官僚であった。この范曄は癖のある人物であったらしく、周りと衝突したりして、432年に左遷される。左遷された時に一念発起して、歴史書を書こうとしたのが「後漢書」である。彼はその後、朝廷の謀反事件に巻き込まれで処刑される。この本は書き始めてから完成するまでに、時間が掛かっていた。完成していなかった部分は、後漢の制度について記した部分とされているので、本体の部分は彼が編集したと考えて良い。いずれにしても「後漢書倭伝」は5世紀前半の成立という漠然とした言い方をせざるを得ない。「三国志」と「後漢書」を比較した場合には、「三国志」の方が古い時に作られており、「後漢書」の方は百年以上後で作られている。
更にそれだけではない。中国の歴史書は、正史と呼ばれている。司馬遷の「史記」に始まって、清の「清史稿」まで20の王朝の歴史という事で、二十四史 と呼ばれている。この歴史書だが、司馬遷の「史記」に代表されるように、初期の中国の歴史書というのは知識人が個人的に作っている。途中から命令で、大勢が集まって作るという風に変化するが、司馬遷の「史記」・陳寿の「三国志」などは個人が作っているのだから、時代的に知識人が自分の力で歴史書を作ろうと考えて取り組んでした時代であった。という事は彼ら以外にも歴史書を作る人がいたという事になる。
この様に歴史書というのは、今も残っている一つだけしか作られなかったというのではなくて、いくつか並行して作られていたことが多いという事になる。そしてその中で一番出来が良かったものが、よく読まれるようになって、それ以外のものは余り読まれなくなる。結果として残るのは、最もよく優れていると評価された歴史書で、それ以外は読まれなくなり廃れていくのである。更にこの歴史書は同時代だけではなく、後の時代でも読み継がれていく。
その時代の歴史書を作ろうとする人が、前の時代の歴史書を読んだら、当然その影響を受ける訳である。
つまり「後漢書倭伝」と「魏志倭人伝」があって、同じ話が載っている場合には、別々に元の資料に当たって記事にしたというよりは、後から出来た「後漢書倭伝」については、「魏志倭人伝」を読んでそれを取り込んで、しかし丸々同じ文章だとそれは パクリ となってしまうので、知識人としてのプライドがそれを許さない。そうすると文章でも上手に書いてやろうというそのような意識が働いて、内容は同じだけど文章が多少異なるようになる。ただ一方で、文章を書き直した結果、解釈が違ってしまうことが起きる。
卑弥呼の即位と鬼道の話が、即位の前なのか後なのかというようなことが、文章を手直してしまった結果、意味が変わってしまうことが起きる。よって「後漢書倭伝」というのは、「魏志倭人伝」を読んでそれを取り入れ、文章を手直しして意味が変わっている部分があるということまで起こっている。「魏志倭人伝」の方をきちんと読むべきなのである。「後漢書倭伝」は補助資料として読まなければならない。
さて倭国の出現について話す。「後漢書倭伝」の方には卑弥呼以前の中国との外交が記されている。今言った通り、「三国志」にはそこまでは詳しく記されていない。「後漢書」洪武帝の時に建武中元二年 倭国王遣使して奉献す とある。
奴王が外交使節を派遣してきたという記事がある。同じ話は「後漢書倭伝」に 建武中元二年 倭奴國か貢を奉り朝貢す。使人は大夫を自ら大夫を称す。倭国は極南界なり。洪武は賜うに印綬を以ってす。
金印を授けたという有名な記事が出てくる。また 永初元年 西暦107年 、倭国王師升が生口百六十人を献じ、願ひて見を請ふ。という記事が出てくる。この二つ後漢の時代の倭国の動きということになる。補足しておくと、
後漢とは当時の、日本列島の記事はこれだけではなかったと考えられる。例えば九州には小さな国々があってその国々が、朝鮮半島に設置されていた後漢の役所である楽浪郡まで行って、交流するということはかなり頻繁に行われていたのであろう。歴史書は余り日常的な事は特筆しない。日本列島からやってきた、皇帝に会おうとした などと言う様なことだけが記されることになる。楽浪郡と交流があったのは、
夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となす。歳時を以て献見すと云う。
という有名な記事があってそこからも分かる。歳時を以て ということで、ほぼ毎年やってきているように見受けられる。
それは現在の 平壌付近にあった楽浪郡辺りであった。これに対して奴国王や皇帝の記事は、謁見について言及されている。それを言い換えると前の時代には朝鮮半島にあった出先機関止まりの交渉であったが、後漢の時代になってくると、列島の国々は中国王朝との外交を意識するようになってきた。ここに少し国々の国際関係に対する意識の変化がみられる。
奴國王に金印 57年
そして注目したいのは、西暦57年 の派遣主体は奴国の王である。金印を授かったという風に記録されていて、この金印をもって、これが本物がどうかという意見が今でも分かれている。本物だというのが一般的であるが、偽造説は江戸時代から噂されている。57年に派遣してきたのは、奴国王と名乗っている。これに対して107年の遣使は倭国王と名乗っている。つまり奴国というのは、九州の一部にあった小国の一つ。恐らく奴国一国で派遣したのではなくて、奴国が派遣する時にそれにくっついて、周りの小さな国々が相乗りしていたかも知れない。
倭国王・師升を名乗る 107年
これに対して107年の時には、倭国と記されている。どこかの国が中心になっているのではなく、倭国という大きな纏まりのようなものを名乗っている。またそれを受け入れた後漢の方でも、やってきたのは倭国の代表者としての倭国王・師升と記録している。この段階で、小国の連合体が出現しているという風に考えることが出来る。それがいつかというと、その50年前には奴国と名乗っているだけで、連合体は見えない。つまり57年と107年の間に、何か大きく纏まろうとする動きがあったのかもしれない。
この頃に倭国は弥生中期の後半と考えられるが、小国同士の抗争が激化している時代だった。それは例えば遺跡から武器が出土する。集落が盛んに作られるようになる。発掘された人骨から矢が刺さったものが発見されたりするようになるので、戦争があった痕跡が多くみられる。
「後漢書倭伝」自身は 分れて百余国となす。と書かれているが、「魏志倭人伝」では三十余国と記されている。勿論これは中国側が把握した数字であり、列島に存在していた小国の数は実際には分からない。そして「魏志倭人伝」の
その国、本は又男子を以って王と為す。住みて七、八十年、~
その頃は男の王がいた。その男性の王が「後漢書倭伝」の師升だとすると、そこから7~80年ということなので、107年から70~80年だと西暦170年から180年ということになる。そして師升の頃・2世紀初頭の集合体の形成というのは、小国の抗争が一段落しつつあったことを伺わせる。小さい国がバラバラに戦っている状態から、バラバラだと滅ぶ危険性が高いということで、まとまって戦おうという動きが見えてくる。それが2世紀の初期までに起きて、連合体が発生したと考えられる。この様にしていくつかの連合体を作るようになり、睨み合いの状態になる。すると大きな抗争が発生しにくくなる。この様に倭国の乱というのは倭国王師升の頃に、連合体が形成されてそれが倭国と呼ばれていた。連合体の中での倭国の内部対立であったと考えられる。
連合体の中の変化
日本列島全域で戦争がありましたと理解するよりは、倭国という連合体が形成されていて、その内部で何らかの対立が生じたのであろう。その連合体の対立というのは、どういうものなのかというと、多分内部での利害の対立が生じた結果と考えられる。というのは弥生中期までは九州北部は、地理的に朝鮮半島や中国との外交に有利な立場にある。
但し連合体というのは、九州は北部だけではなく日本海沿岸、瀬戸内沿岸などが徐々に成長してくる。そうすると連合体の中の広い意味の流通を巡って、九州北部だけが有利な立場を独占しているということに対して、それ以外の地域が不満を持つ様になる。その結果争いが生じたということが考えられる。そしてそういう過程を経て、卑弥呼が登場する。
卑弥呼の登場 男の王を挟んでイヨ。
では誰が卑弥呼を擁立のだろうか。卑弥呼は240年代に亡くなったと考えられる。師升が派遣した107年から、7~80年で内乱がおこって、その後に即位したとすると180年頃の即位を見積もっても、在位が約60年となる。当時としてはかなり長い。例えば在位が60~70年間とすると、即位したのは何歳だったのか。恐らく10代かそれ以前に即位したと見られる。例えば後に即位する壱与は「魏志倭人伝」には、13歳で即位したと書いてある。当時は若くして即位することを不思議とは思っていなかった。これは後の代から考えると大きな変化である。というのは6~7世紀の大和政権では、即位する時の条件は、年令が重要な要素であってその年齢は人によって違いがあるが、35~40代と言われている。
つまり20歳そこそこの王族が即位することは、彼らにはあり得ない事であった。それより前の弥生時代には、卑弥呼や壱与は10代或いはそれ以前に即位していたということになると、王権が変化しているということが言える。若くして即位できる王権、年令が一定以上に達していないと即位できない王権。そこは政治的キャリアを持っているのかどうかが関わる訳であって、そういう意味で卑弥呼の時代の王権と大和政権の王権というのは、本当に繋がっているのかどうかについては議論があるし、ここでは議論しないが大きな変化が起きていることは間違いない。
又卑弥呼以前と以後を考えると、卑弥呼の7~80年前に男の王がいたとはっきり書かれている。卑弥呼が死んだ後は、男の王が即位したが治まらず、壱与が即位したとされる。壱与について「魏志倭人伝」では、わざわざ卑弥呼の宗女(一族の女性)であると強調している。卑弥呼と 壱与の間にいた男の王というのは、一族ではなかったのかという疑問が出てくる。実際、弥生時代の王権において、血縁関係がどの程度重要だったのかというのは、気をつけなければならない所である。
卑弥呼が何故即位できたのか、それは血縁関係よりも、鬼道に優れていたからであることが特筆されている。勿論前の王と何らかの血縁関係はあったかも知れないが、それが特筆される訳ではない。そういった点で、この頃の王権というのは、血縁関係よりも何らかの政治的能力、卑弥呼の場合は鬼道、そういったものが重視された社会であったと考えられる。
王と国王との違い 倭王と倭国王
一方、卑弥呼が魏に朝貢した際に、親魏倭王 に任じられている。親魏 という特殊な称号を外すと 倭王 になる訳である。正史には 倭国王 と記されている。倭国王と 倭王。国 という一文字の違いであるが、個々には大きな違いがある。ただの王というのは中国から見て地理的に密接な関係があり、政治的に利用することが出来る国に与えられる。例えば中国から見て朝鮮半島の国々は、そういった国なので百済王とか新羅王とかという風に任じられる。百済国王とか新羅国王ではない。これにたいして国王というのは、はるか遠い国で通行が限られている国に対して用いられているケ-スが多い。つまり中国から見て 師升の頃には 倭国王 と呼んでいるということは、海の向こうの遠方の国と言う扱いだったのであるが、卑弥呼の頃には 親魏倭王 という呼び方をしていることで、むしろ政治的に何か期待できる国であると解釈が変わってきている。師升の頃には楽浪郡に朝貢してくる位の意識だったのが、卑弥呼の時代には地理的には南にあるという意識があって、これは世界史の問題に関わってくるので第二回に話す。
そういうイメ-ジの中で対立している南の王朝である呉王を、牽制できるという倭国の価値を見出して、倭国王ではなく倭王という少し格上の称号を授けたものと考えられる。
今回は倭国の乱と卑弥呼の登場について、文献はどのように読み解いていくかを中心に話した。
「コメント」
おさらいをしている気分である。講師の声のト-ンが高いのと早口なので聞くのに神経が疲れる。「魏志倭人伝」の邪馬台国の在処の推定論争には飽きている。北九州のどこかにあると確信している。論理的結論ではないが。