220613⑪「東寺立体曼荼羅」

曼荼羅というと普通は画に、仏が沢山描かれたものをいう。それを仏像・彫刻で立体的に曼荼羅を表している所から、立体曼荼羅という。

前回最後に空海には二つの世界があるということで終わった。高野山と都。どっちが空海の本質なのかと昔から考えていて、前回は高野山の事を話した。今日は東寺の話をする。

 持ち帰った曼荼羅とか肖像画の保存修理の必要が出てきたと空海が訴えた

中国で恵果に会って曼荼羅とか真言の先輩たちの肖像画などを持って帰ってきた。その保存状態が悪くなってきた。

空海はスポンサ-の藤原冬嗣に頼みの手紙を書く。「それらの保存状態が悪くなってきている。修理しなければならない」
高野山は湿気が多いのである。密教ではそのようなものは鑑賞するものではなく使う物なので傷みやすいのである。

そして次のようなことも言っている。元々自分は性分として物の本質を見極めようとする思いがあった。でも分かれ道が多くあって道が分からない。しかし有り難いことに真言密教・大日経を知ることが出来た。しかし本質が分からない、やはり中国に行って密教の事を知らねばならないと思った。そして恵果先生に会うことが出来た。そして胎蔵界と金剛界の曼荼羅を持って帰ることが出来た。それから18年が過ぎた。曼荼羅や肖像が描かれた絹が破れてきて、色も剥落してきた。」このようなことを伝えた。

 

朝廷の援助で立体曼荼羅の新しいものを作ることとなった。胎蔵界、金剛界曼荼羅 五大虚空蔵菩薩 金剛薩埵 密教の先輩たちの26の肖像を作ることが出来た。 そして完成記念の法要を行った。

 

 両界曼荼羅や肖像画

こういうものは修理し写し写しして繋いでいくのである。日本の文化財で絹に描かれたものは長持ちしない。千年も経ったら総て粉末になる位なので、修理と写生での再生を続けて現在に至っている。そういうことが分かる最初の資料である。

 空海の人となり まずは引退の申し出

東寺の立体曼荼羅が完成したら、空海は引退を申し出る。一体空海とはどんな人なのか。空海に関する本は沢山出ているが、作者の多くは真言宗の僧であり研究者なので、空海は素晴らしい人で何の欠点もない、弱みもないパーフェクトな人として書かれがちである。そうでなくとも、空海のいい所が書いてあるイメージがある。実はそうでもなくてすごく悩んでいて、迷って苦しんだ人生である。私はそれをとても大事なことであると思っていて、そういったことが空海の評価を下げることではなく、むしろ高めることになると思う。だから講義でもそういう話をしている。

「辞めさせてもらいます」という手紙を冬嗣に出す。「私は50歳に近づいている。私はもう年だ。願っていた事、やりたいことは全部出来た。伝えるべきことも伝えた。だから隠棲したい。在家の場合、道を究めるのを邪魔するのは妻と子供であり、出家の場合は弟子がその悪魔である」という。空海はそんなことを考えていた人でもあったと驚くことでもある。

こんな文章を見たことないし、他の僧がこんなことを書いているのを読んだこともないので驚く。

私が持っている経本や仏像は弟子たちにあげた。人間は金剛石みたいに固い丈夫なものではなく、かげろうみたい存在である。そして冬嗣にここで別れたらもうお会いすることもないでしょう、弟子たちの事を宜しくお願いしますと言った。結局この引退は許可されなかった。空海はこういうことを思っている人なのである。

多分空海は孤独な人であろう。心の中は深すぎて誰にも分らないので結局一人ぼっちである。

 

そして高野山に寺を作ったのも、普通の研究者は信じないかもしれないが、中国からの帰国途中 神に約束したからである。そしてそういう寺はどこに作ればいいか。それは人のいない場所である。高野山であるとなる。

 

 引退の申し出は拒否される 東大寺に空海が灌頂道場を設置

821年冬に雷が鳴った。これは翌年疫病や洪水の予兆とされた。そこでそれを防ぐために東大寺に灌頂道場を作るということになる。そしてそこで空海に修法やってもらって、国家鎮護と民衆の安全をしてもらう事となる。これは南都六宗が、空海の真言密教を受け入れていたことを示している。

 淳和天皇の時に東寺を空海に

そしてその流れで東寺を空海が面倒を見るようになる。平安遷都の時に、奈良の多くの寺は京都に移転しなかった。

ただ平安京の入り口の羅城門の左右に、東寺と西寺だけは作り、ここを外国の接待などに使った。823年というと平安遷都から30年経っていたが、まだ完成していなかった。その東寺を空海にと嵯峨天皇が言ったとされているが、よく確認すると、次の淳和天皇のときに東寺を、空海が面倒を見るようになったと近年言われている。

東寺は国家鎮護の寺で、桓武天皇が作ったがまだ完成していなかったのである。そしてその時に空海は東寺に真言宗の僧 50人送っている。これは特筆すべきことで、当時は寺は総合大学の学部の様に、色々な宗派の僧が住んでいた。所が最澄・空海の時代になって宗派が出来てくるが、そのタイミングで東寺に真言宗の僧50人が入ることになる。

厳密には真言宗ではなくて密教を学んでいる僧ということになるが。その僧たちは仏教経典、密教の戒律、論文を勉強するのである。その僧たちが勉強すべき本が目録になっていて424巻あったという。

 空海 東寺を整備する 立体曼荼羅

寺は金堂がメインで、講堂という勉強する場所、僧の住む僧房があって塔があるのが基本形である。東寺には金堂しかなかったので、空海は講堂と五重塔を作ろうと、そしてそこに自分の密教世界を立体で表現しようと考えた。

しかし人手、材料が不足したので朝廷に応援の依頼をしている。

講堂の中にこの時空海が作った仏像が今も16体残っている。全部で21体の仏像で構成されている。

真ん中の大日如来を中心とする五智如来、その右に金剛波羅密多菩薩を中心とする五大菩薩、左側に不動明王を中心とする密教の五大明王、四方を四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)、梵天、帝釈天が並んでいる。

この21体を空海の構想で立体曼荼羅として作られた。これは中国にもないので、恵果から学んだことを、空海が独自の構想で目に見える形に表したものである。ただ東寺全体が完成した時には空海は既に没していた。

例えば降三世明王という顔も手も沢山あって、左右の足で大自在天即ちシバ神を踏んづけている。そういう仏像は今迄誰も見たことがなかったので、驚いたに違いない。

そしてかってないスーパ-パワ-を感じただろうし、そういう密教の仏によってあらゆる災厄は鎮まって、国家は守られると信じたことであろう。

 

「コメント」

 

経典や肖像が傷むと言っただけで東寺を貰えた様に説明されたが、それには相当な働きかけがあったはず。立体曼荼羅が何故密教世界を表しているかの説明も欲しかった。でないと浅学な私には仏像のオンパレ-ドにしか見えない。