220523⑧「徳一と空海」
徳一は会津を中心に北関東にかけて活躍した法相宗の僧である。大変な学者で、最澄と大論争を繰り広げ、空海とも関係のある人である。
最澄と法相宗の関係
最澄と法相宗との対立論争が、まず弘仁4年813年にあった。最澄が遣唐使に行く頃、奈良仏教の中心は法相宗であり、各宗派は対立しており南都六宗は政治的にも困った状態であった。そしてそれを克服できるのは天台宗と桓武天皇は考え、最澄を唐に派遣した。帰ってきた最澄は色々な経緯の中で、最澄と法相宗は対立を深めていく。最澄と法相宗の興福寺の僧が討論して、最澄が勝つということがあった。これは最澄が空海に経本を貸してほしいと言って、断られた次の年である。空海の持ち帰った密教の経本の勉強をすると共に、一方では法相宗とバトルを始めていた。
二つの宗派は相容れないところがある。天台宗は法の真の教えは法華経とし、それを以てすべてのものは成仏できる、仏になれると言う。それに対して法相宗は成仏できないという、出来るのはきちんと修行した僧のみ。又天台宗は法華経を絶対視するが、法相宗はそれも仏の教えの一つであるとする。実はこの論争は中国においてが発端なのであるが。
徳一
やがて法相宗の高僧である会津にいる徳一との論争へと展開する。その頃は全国的に相次ぐ災厄で危機的状況にあった。807年徳一が災厄除け祈願の為設立した寺は、東北から北関東にかけて100以上と伝えられる。殆どが807年なのは何か訳があるのだろう。徳一が会津に行ったのはもっと前であるが、807年前後から大きな活動を始めて、徳一に帰依する人々が増えた。
最澄の関東布教 律宗の道忠-広智
その10年後817年、最澄は関東東北に布教の為に行く。泰範に一緒に行こう、比叡山に戻って来いと言ったが戻ってこなかったが。そこで徳一の存在を知ったのであろう。上野国(群馬県)に浄法寺、下野国(栃木県)に大慈寺を、夫々に宝塔院という塔を建て、法華経を納めた。そして数万人の人たちの前で金光明最勝王経などの講義をした。
最澄が関東に来た時には大勢の人たちが集まる素地があった。最澄は重要な人物になってはいたが、律宗の道忠という僧の力でもあった。道忠は鑑真の一の弟子であり、この時亡くなっていたが、鑑真から具足戒を受けて、関東で人々の救済活動を行って、救世主のような存在であった。その道忠の弟子がやがて最澄の弟子になる広智である。この様なことで両者の間で交流が生まれた。道忠やその弟子たちが最澄に協力したので、関東に天台宗が広まった。広智はその後比叡山で天台を学び勅命で下野に入った。学識の高い僧で、天台宗が東国の広まったのは広智の存在に負う所が大きい。
最澄と徳一の論争
一つの点は法華経の評価である。天台宗では法華経が一番素晴らしいと考えているが、徳一は沢山ある経典の一つの認識。それだけではなく、あらゆることについて5年間にわたって議論することになる。真面目な最澄は、この経典にはこう書いてある、こちらにはこう書いてあると厳密にいうが、徳一はおよそこういっている程度の感がある。論争の内容は難解で、両者の論点は嚙み合っていない点がある。当時は法相宗が主流派であって、最澄は挑戦者であった。戒壇の設立などして天台宗を確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗の理論家である徳一を説き伏せることは、天台宗の優位を示すことにもなるので、かなり攻撃的であった。
最澄はインドから現在までの仏教の事を全部勉強しているので、それに基づいている。とにかく今の日本は危機的状況なのでどうしたらいいかというのが、大きな危機意識になっていて、結論として天台の教えだけが日本を救うことが出来ると主張する。空海はそれは真言密教だと言うので、二人は合わないのだが、徳一は法相宗なので違う考え方である。ここの所最澄は空海との関わりの中で、密教を教えてもらいたいとの思いがあったので、遠慮のある何年間を過ごしたが、その後徳一とのバトルでは本来の最澄の精神が復活している。
嵯峨天皇の天台・真言の経本の各地への配布プラン
桓武天皇の時に最澄空海は唐に行ったが、彼らが唐にいる間に桓武天皇は亡くなって、平城天皇となり更に譲位されて嵯峨天皇になっていた。その嵯峨天皇の時に天台宗を全国に広めようと、天台宗が大事にしている経本を書き写して
各地の寺に入れるということになる。この時嵯峨天皇は空海に対しても、密教も広げようということもいう。そこで空海も天皇直々のお声掛かりなので密教経典を多く書き写そうと思う。そこで空海は全国各地の色々な人に依頼することになる。
しかしそれでは最澄が密教を書き写すことと同じで、これを嫌がった空海はどう思っていたのか。その色々な人の中に会津の徳一もいた。厳密に言うと、この段階ではまだ真言宗という名称はない。最澄は真言宗という言葉を使っているが、
それは天台宗の中の密教部門の事であった。真言宗はまだ一つの宗派にはなっていない。
関東地方では空海は徳一、広智にも頼んでいる。空海は誰とでも宗派を越えて仲良しになれるのである、最澄を除いて。広智に頼んだ時の手紙が残っている。私は唐に行って真言の秘法を学んできた。但しその経の写本の数か少ないので、これでは全国に広げることは出来ない。是非応援して書き写して欲しい。そして経本と手紙を下野の大慈寺に送った。
こんな風にして密教経典の数が増えていく。それだったら書写ばかりする最澄への文句は何だったろうと言うことになるのだが。
その時に徳一から空海に質問状が届く。
徳一から空海への質問状
密教について分からないことが11ある。それはまず一つ。この密教経典は如是我聞(にょぜがもん)で始まる。普通のお経もそうである。「かくの如く我聞けり」釈迦がどこへ行って何をしゃべったか私は横についていたので、そういう風に聞きました」という意味である。しかし密教経典は釈迦の教えではなく、大日如来の教えなのである。如是我聞というけど、大日如来の話をだれが聞いたのですか。そんなことってあり得るのですか。というのがまず一つの質問。非常にシンプルで素直な良い質問である。
それから即身成仏というのは空海の密教の考え方で、この身はそのまま成仏し仏になるという
これに対しては、それでは修学が充分でなくなる。すぐなってしまうのだから。これは慈悲を欠くことになるのではないか。やはり長い時間をかけて苦労して変わっていくことによって、慈悲というものは生まれてくるものであって、はいなりましたでは他者に対する慈悲を欠くことになるのではないか という疑問。私はこれもとてもいい質問だと思う。
これは批判ではない。私は疑問を解決して理解を増したいと欲するだけである。密教の事を正確に知りたいので、分からないことを聞いているという姿勢である。だからこれは空海や密教批判ではないということも書いてある。これに対して空海は返事を書かなかった。何故書かなかったのか。
その前に東大寺の僧がこの頃にやはり空海の布教活動で初めて密教を知って、年80になって初めて密教を学び、なんて素晴らしい教えだと思い、寝食を忘れてしまった。これを得る事の遅さを恨むと書き残している。
こんな風に密教は徐々に広がり始めていく。
回答しなかった理由
所で何で空海が回答しなかったのか分からないが、この辺りは松岡正剛が「空海の夢」という本に40年ほど前に書いている。こんな風に書いていて面白いと思ったので、これを紹介して今日の話は終わろうと思う。
「空海は50歳を越えてはっきり覚悟していた。徳一の問いにも弟子の問いにも、あらゆるものの問いにも答えるべきではない事を体全体で感じていた。そしてただ大日如来の徳、大日の恵光を、如来を巡る疑義よりもなお高く、なお早く人々に齎すしかないと思っていた。」
と松岡正剛は書いていてほほう と思いながら40年前に読んだ記憶がある。今、やるべき事は質問に答える事ではない。今やるべきもっと大事なことがある。これは分かるような気がしないわけではない。私達凡人は返事を書くが、空海が返事しなかったことも分かるような気がした。
「コメント」
空海がテ-マの講義であるがどうも最澄が可憐で気の毒で応援したくなる。南都六宗と空海と、徳一と四方に敵を抱えて孤軍奮闘。そのおかげで後年、天台宗は盛んとなる。さて次は空海さんの高野山・東寺獲得の手並みを見よう。