220516⑦「異なる二人」
空海と最澄は折角出会ったが、異なっていた。目指すもの、大切にするものが違っていた。その話をする。
前回は出会ったところまでであった。つまり最澄は、空海の請来目録の一切を見て、書き写していた。それで自分の知らない経本を、空海が持ち帰ってきたことを知る。桓武天皇の絶大な支持の下、南都六宗からも支持を得て、日本仏教の救世主の扱いで唐に渡った。一方空海は誰も知らない人であった。直前に得度して、どこか有力な寺に所属している訳でもない。そして中国でも二人は出会っていない。空海は予定コースを外れて南部に着き、最澄は予定通りの場所に着き、まっすぐ天台山を目指した。空海は長安へ。
請来目録を見た最澄 空海の弟子となる 乙訓寺で二人は会見 高雄山寺へ
最澄は請来目録を見た時に「なんだこれは。知らない経典ばかりではないか」しかしレベルの高さは理解した。
天台宗は本来の天台宗を学ぶ部門と、密教を学ぶ部門で構成されているので、最澄は密教部門をもっとレベルアップしなければと思った。自分も越州で密教を学んで帰ってきたので、一通りのことは勉強してきたつもりであった。そして桓武天皇から頼まれて密教の修法を色々やって、密教僧としてもすでに活躍していた。しかし空海の請来目録を見た時に、そのレベルが違うということが分かった。そこで年上ではあるが、最澄は空海の密教分野の弟子となる。
弘仁3年10月27日最澄は京都府長岡京市乙訓寺に、空海を訪ねたのが最初の出会いである。最澄は一泊し語り合った。その前に奈良興福寺の維摩会(ゆいまえ)という法要に出席している。そしていったん京都に戻り、乙訓寺に行く。
最澄の弟子に泰範という人がいた。後に最澄と空海が決別する直接の原因を作った人である。その人に最澄は空海との会見の模様を描いた手紙を出す。「丁寧に教えてもらった。曼荼羅も見せて貰った。密教を授けてもらうので、お前も来なさい」
空海 最長に密教を授ける
そしてその後すぐに空海は乙訓寺を出て、高雄山寺(神護寺)に移った。空海が最澄に中国で学んだ密教を授けると言うので、最澄は高雄山寺に向かう。その時にここがすごく重要な興味深いことであるが、空海は最澄に「私は間もなく死ぬ」と言ったのである。空海39歳。→「私は40歳になると寿命が尽きる。私が中国で学んできた真言の法を最澄に全て授けます。年内に。」このことを最澄は泰範に手紙で書いている。空海は本当に死ぬと思っていたのか疑問だが。ここは結構重要なポイントで、空海の先生・恵果が空海に出会ったときに、もう自分の寿命は尽きようとしていると言ったのは真実である。そしてお前に会って死ぬのが恐ろしくなったとも言った。つまり、私は空海に出会って生きているうちに全ての事を空海に伝えることが出来るのだろうか。私の寿命の残りは少ない。これを思うと死ぬことは怖いと恵果は言い、全てを空海に教えて死んだのである。空海もこの時に何らかの理由で、自分の寿命が尽きようとしていると思っていたのかもしれない、よく分からないことである。
この頃812年の日本の状況というのは、疫病、旱魃、飢饉で多くの人が死んでいた。そういう日々を送ると生死の区別がつかなくなっていくのか。死が常に傍にいる気持ちになっていることがあったのか。又この時期体調が悪かったのか、何しろ自分自身は何故かもう長くないと思い込んでいる訳である。そして自分が死んだら、自分が持ってきた最高の仏教は、自分の死と共に消え去るわけである。 だから生きているうちに早く最澄に伝えておきたいと思っていたようではある。
この辺は何とも言えないところではあるが、いずれにせよこの経緯はよく分からないこと。
高雄山寺で金剛界灌頂を受ける 二人のもつれはじめ
4人で金剛界の灌頂
11月5日に最澄は泰範に手紙を書いた、そして高雄山寺に行った。11月14日、9日後に最澄は高雄山寺に着き又泰範に手紙を書いた。「高雄山寺には食べ物が無い。早く米を持ってきてくれ」なかなか切羽詰まっている。そして15日に金剛界灌頂を最澄ら4人で受ける。灌頂はそれは密教の入門の儀式であるし、合格という儀式でもある。
多分最澄はまさか着いた翌日15日にこういうことがあるとは思っていなかったであろう。しかもそれは4人という。僧は最澄だけで他は俗人である。何故こういうメンバ-になったかは理解できない。その四日後、当時の藤原氏のトップの藤原冬嗣に手紙を書いて「自分は中国に行ったが、真言の事は十分勉強できていない。一方空海は長安に行ってつぶさにこの道を得ている。」と正直に言っている。自分は中国に行ったが、天台の事はしっかりやってきたが、密教の勉強は不十分であった。所が空海はやがて死ぬと言って高尾山寺に籠ってしまったが、私は密教の教えを受けるために空海の下に行った。そして12月13日に胎蔵界の灌頂を受けようとしている。しかし何も持っていないのでその準備が出来ない。
だから助けてください。→空海が恵果から灌頂を受けた時もお礼や参加した人たちへの接待などで多額の金品が必要であった。
145人で胎蔵界の灌頂 結縁灌頂のみ 空海の変心 最澄にとって不思議の連続
12月14日に高雄山寺で胎蔵界の灌頂があって、最澄ら145人が受けた。これもどうしてこんなに大勢なのか分からない。灌頂には結縁灌頂と伝法灌頂の二つがあって、入門する灌頂ともうこれでいいという灌頂の二つがある。
最澄の場合は勿論伝法灌頂を受けるつもりだったが、受けたのは結縁灌頂だけであった。それで最澄はこれからの段取りはどうなるのかと聞くと、それにはあと3年掛かると言われた。分からない。10月に会った時と12月に会った時との間で、空海が心変わりしたとしか思えない。最澄は、乙訓寺では年内に真言の法を授けると言ってませんでした?という感じになる。最澄は「3年ですか。それは私には無理です。天台宗をきっちりせねばならない時期ですし、山を3年も離れるわけにはいかない」といって、帰ることになる。
先程の空海自筆の灌頂歴名145人の中には、最澄の弟子泰範も入っておりそれは理解できるのだが、一か月前の灌頂の4人というのは何なのか。空海はなぜこんなことをするのか、全く理解できない。更に二度目の灌頂も最澄が高雄山寺に着いた翌日に行われたが、空海は何を考えていたか分からない。
最澄は比叡山に戻る。年が明けて弘仁4年813年正月18日に、空海から手紙。「高雄山寺で法を授けるので来ませんか」最澄は無理だったので弟子を派遣する。この弟子も正式な伝法灌頂は受けられなかった。最澄はこの手紙で、又経本を貸してほしい、その本を真言宗の序に当てたいと思うと伝えた。真言宗というのは宗派の真言宗ではなく、天台宗の中の密教部門の事である。まだ当時真言宗は成立していない。最澄が天台宗の中の密教部分の充実に注力していることが分かる。
最澄の問題発言 二人考え方の相違
そして更には問題発言ではあるが、最澄は「請来目録の総てを書き写し取りたい、写し終わったらあなたの所に行って又勉強したい」まことに正直な発言ではあるが、密教には言葉では分からないという考え方がある。その割には空海は言葉の達人であり、沢山言葉を使っている。しかしそれでは究極の所、密教の奥義には到達できないというのが、密教のそして空海の考え方である。
しかし最澄は言葉の人文字の人そのものである。書き写す、どんどん勉強する、そしてマスタ-していくやり方の人である。空海はそのやり方が気に入らない。こういう所で二人は徐々にお互いの違いを感じ始める。
「コメント」
既成勢力へ、新鋭知識を持った無名の新興勢力の反発、妬みがベース。そして圧倒的な世俗的人間力の差。際立った人間性の差。