220509⑥「最澄との出会い」

前回までの概略

最澄と空海は会ってそして結局分かれたが、このことに興味を持つ人が多い。前回までの所を整理すると、空海は中国に行って、長安で恵果と出会って、真言密教の総てを学んだ。そして恵果は早く日本に帰って密教を広げるように言って、間もなく亡くなる。しかし便が無いのですぐには帰国できなかったし、空海は20年の長期留学生であり、本来は20年後の遣唐使船での帰国となっていた。所が中国の皇帝が死亡し、新皇帝即位の祝賀使節の特別の船が来航した。806年である。空海は2月に長安を出発し、越州で更に勉強し新たに経典150巻を購入して日本に向け出発。帰国後請来目録を平城天皇に提出。日本では桓武天皇が亡くなり平城天皇となっていた。しかし空海は京へ戻ることは禁じられていたので、大宰府観世音寺に滞在していた。

 空海が入京を禁じられていた理由

何故京への帰還が許されなかったかは不明であるが、一つには長期留学なのに二年で帰ってきたこと、もう一つはこのタイミングで桓武天皇の第三皇子の伊予親王の変があった。空海の母方の叔父 阿刀大足(あとうおおたり)は伊予親王の師であり、又空海は渡航前に師事していた。その伊予親王が謀反の疑いで母と共に幽閉され、後には毒を飲んで自害するという事件があった。関係者も処罰されたということがあったのが空海にも影響しているのか。

 平城天皇から嵯峨天皇への譲位を機に空海は畿内に入る 施福寺 高雄山寺(神護寺)

二年経過して807年、平城天皇は病弱の為、在位3年で弟神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となる。そうすると伊予親王の変関係者は赦免された。このタイミングで空海は大宰府から畿内に入る。和泉槇尾山にある施福寺。そして朝廷の指示によって京の西北 高尾山寺(神護寺)に入る。空海には本拠となる寺が無い。元は和気氏の私寺で最澄とも縁が深い。朝廷へ最澄がここを推薦したのかもしれない。

空海と最澄の交流スタート

空海は809年7月16日に入京した。最澄は早速に経本55巻の借用を申し出る、8月24日。朝廷に提出された請来目録を書写しているので、最澄は内容を知悉している。

 最澄の概略

近江出身。19歳で得度してすぐ比叡山に籠る。奈良時代最後の天皇・光仁天皇や平安時代最初の桓武天皇が、その頃の僧侶がなっていないので、日本の仏教界は堕落していると言っている程の状態であった。奈良仏教の中では法相宗、三論宗が激しく対立している状況であった。又戒を守らない僧が多数いた。また東北での蝦夷統治も膠着していた。

こういう状況の中で最澄はエリートコースを降りて山に籠っていたのだ。当時志ある人は山で修行という傾向があった。最澄は比叡山に籠った時に願文を書く。これが感動的な文章で、読んだ人に感動を与える。

「自分は最低の人間である。だから山で修行し山からは出ない。」仏のように心が清らかになるまで世に出ないという誓いを立てる。こういう誓いを立てるというのは、自分の前に越えられないハ-ドルを自ら置くようなもので、頑張って乗り越えようとする時に、今までの自分になかったパワ-が生まれてくるということであろう。そういう誓いを立てること、願いを起こすことによって、最低の自分は変わっていきたいと願文に書いている。最後に 伏して願わくば 解脱の味い、独り飲まず、安楽の果独り証せず。法界の衆生と同じく、妙覚に登り、崩壊の衆生と同じく、妙味を服せん→何よりも願うのは、
苦しみから解放された喜びを一人だけで味わうことはせず、安らかな境地を一人だけで至ることもせず、この世の生あるものすべてと共に悟りたいのです。→決して一人だけで幸せにならないでみんなでという誓いを立てる。

みんなで幸せになる、自分の事は後にする。忘己利他(もうこりた)は最澄の有名な言葉の一つであるが、→己を忘れて他を利する。私以外の人を幸せにする。これが最澄の考え方で、最澄は死ぬまでこういう考え方の人であった。このこととやがて来る空海との決別との関係もあるので、忘己利他 という言葉を覚えておきたい。

もしこの願力に依りて、六根相似の位に至り、もし五神通を得ん時は、かならず自度を取らず、正位を証せず、一切に着せざらん。→例えこの願文で仏の身に近づくことが出来、精神力を自在に操ることが出来たとしても、自分だけが救われて悟りの境地に至ろうなどとは思いません。あらゆる総てのこだわりを捨てましょう。

みんなで幸せになるというのが最澄の考え方なのである。そして12年比叡山に籠っていた。12年後にあることが起きる。

 朝廷との関り

山に籠っていても最澄の事を知る人は知っていた。そして内供奉十禅師という宮中で天皇と国家の安泰を祈る僧に選ばれる。そして比叡山で法華経の講義を行った。高雄山寺(神護寺)でも奈良仏教各派を呼んで行ったが、その内容が抜群であったので、桓武天皇は当時の仏教の窮状を救うのは最澄だと確信する。

 最澄遣唐使となる

そして最澄は遣唐使となる。日本仏教を変革する期待の星として中国に行くことになる。中国では天台の教えを中心に、密教も、禅も、菩薩戒も学ぶ。天台宗というのは総合仏教みたいなもので、天台の教えだけではなく、他の様々なものを含んでいる。

 天台宗が公認の宗派となる

最澄の時ではないが、のちには念仏も入ってくる。鎌倉時代になると、その中から浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗が出てくるが、それは最澄が色々な仏教を勉強したことからスタ-トしている。帰国後南都六宗だけではなく、天台宗は国家の宗教として公認される。この頃桓武天皇は最澄を国師と言って重きを置いたが、当人は当時病気がちであった。

 皇太子早良親王の謀反の疑い

当時桓武天皇の皇太子は早良親王(光仁天皇の皇子・桓武天皇の弟)で、謀反の疑いで廃され、無実を主張し絶食をして没した。その後周囲で病気や死亡する人が続出し、疫病の流行、洪水も相次ぎ、これは早良親王の祟りとされた。

桓武天皇はこの対策には在来の宗派より、密教が有効と考えていた。

 桓武天皇の死去と平城天皇即位 空海の帰国

病で桓武天皇は没し、安殿(あて)親王 (桓武天皇の第一皇子)が即位して、平城天皇となる。最澄が遣唐使に行く時に応援した呉れた人であったが、何故か帰国後の最澄とはうまくいかなかった。その頃空海が帰国した。

 最長と空海の交流

最澄は空海の請来目録を入手して、その内容に驚く。そこにある密教経典は全部見たことの無いものであった。長安にしかないものであった。当初二人の関係は良かった。新しい経典を借りては書き写す最澄であった。室生寺の修円(しゅえん)と三人で、日本仏教を論じようとも言っていた。空海は高雄山寺(神護寺)から長岡京の乙訓寺に移る。祟りを為すという早良親王が幽閉されていた寺である。そして配流先で死亡したので、怨念が残っているとされた寺である。朝廷は空海に鎮めてもらうつもりであったのかも。この場面で二人は会う。最澄が訪問した。空海は中国で学んだ真言の法を最澄に全て授けると言った。所が結果はそうはならなかった。

 

「コメント」

 

二人の関係には最澄の応援者であった桓武天皇の死が大きく影響しているのではないか。

そしてモダンで何か効きそうな密教がもてはやされ始めていたのでは。さあまじめな最澄さんはどうする。