220502⑤「請来目録の世界」
空海は何故帰国できたのか
請来目録とは何かというと、中国に行ってどんな勉強をして何を持って帰ってきたかを、朝廷に提出する目録の事である。
まず空海はどうやって帰国したか、日本から船が来たのである。12代皇帝徳宗が空海入唐の翌年
1月2日に死去したので、新皇帝への挨拶の為に来航。この船は当初の遣唐使船4隻の内の一隻で、修理の上、遅ればせで入唐したものであった。リーダ-は高階判官遠成。空海は長期留学者なので20年待たないといけない筈であった。思いがけない船であった。空海は遣唐使に選ばれる時、中国に到着時のエピソ-ド、中国の中での不思議な巡り会い、また今回の船の到着である。長安を出発して帰国の途に就く。3/29に越州に着く。ここは仏教が盛んでしばらく滞在し、長安で入手できなかった経典を探し、150巻を入手。8月に船は出発する。
帰国 目録の内訳
経典 142部 247巻、梵字、論文、注釈書、画、仏具その他恵果が呉れたもの。経典の内、118部 150巻は不空の訳であった。胎蔵界曼荼羅三部、金剛界曼荼羅二部、これはまだ日本には入っていないもの。密教の五人の肖像画(金剛智、善無畏、不空、恵果、一行)。この五人に龍猛(りゅうみょう)、龍智(りゅうち)、空海を入れて真言宗八祖像として真言宗の寺には掲げてある。
龍猛-龍智-金剛智 これが金剛頂経系統の人たちだが、龍猛は伝説上の人で亡くなった時に年齢が数百歳ともいわれる。その弟子の龍智という人も分からない。事実上金剛智から出発している。
10月大同元年 806年博多港に帰着。目録を提出する。曼荼羅のたぐいは残っていない、日常使うもので消耗したのである。とにかく密教には絵と道具が必要なのである。
空海は長安滞在中に醽泉寺 (れいせんじ)の般若三蔵の所で勉強したが、その時に彼が訳した様々な経典と彼のメッセ-ジ。
密教の法具 仏舎利 袈裟
それから密教には道具が必ず必要で、空海の肖像を見ると必ず右手胸の所に何か持っているが、
まさにそれが法具である。仏と合体していく様々なやり方に必須なのである。密教では仏の前に壇を組んでその上に色々なものが置かれる。そういうやり方は空海が日本に伝えた。
恵果から空海に特別にあげたものが13ある。例えば仏舎利。金剛智が持っていたものが不空に、それが恵果に、それが空海に渡された。恵果は持っているものすべてを与えたのである。つづれ織りの袈裟、これは東寺に残って国宝になっている。分に過ぎたものを貰ったがお返しするものは何もないと、空海は書いている。
恵果の遺言 目録に書かれている
総てを空海に与える。自分の命はもう短い、全てを与えるまで生きていられるか不安だ。全てを与えるまでは生きていたい。命の足りないことを恐れる。そして 全部伝えた。さあ日本に帰りなさい。日本に密教を伝えなさい。
般若三蔵の経典
般若三蔵はインドカシミ-ル出身で、唐で経典の漢訳を行っていた。ここで空海は経典と共にサンスクリット語も学んだ。般若三蔵は空海の知識と語学力に驚き、様々な経典を与えた。そして告げて「私はカシミ-ル出身で、子供の時に出家してインド中で終業して中国に来た。本当は日本にも行きたいが縁がない。お前は私が訳した経典を日本に持って帰りなさい。私が訳した華厳宗、六波羅密教及びボン教を持って日本に帰りなさい。そして人々を幸せにしなさい」
みんな優れた人たちが空海を気に入っている。そして自分が持っているものを総てくれる。そして日本で広めなさいと言ってくれる。
大日経と金剛頂経
密教はインドで生まれた。大日経に基づく密教と、金剛頂経に基づく密教が別々に誕生した。二つの系統である。
大日経は善無畏が中国にやってきて漢訳をした。716年奈良時代である。それが奈良時代の内に注釈書も日本に入っている。一方金剛頂経系統は、普通の人々にはとても分かりにくく、まさに秘密っぽい。元祖とされる龍猛(りゅうみょう)が金剛頂経を手に入れた経緯も、不思議な塔の中に込められていて、それは人間が見てはならないもので神が守っていたという。それを龍猛が手に入れて、人間世界に金剛頂経が現れたとされる。それが龍智に、金剛智に。金剛智はやはり南インドの人で中国にやってくる。大日経系の善無畏と、金剛頂経系の金剛智が中国にやってきたのはほぼ同じ頃である。奈良時代の初め頃。結構日本と中国は大きな時間差が無く、中国の新しいものが日本に伝わってきている。しかし誰も理解は出来なかったことであろう。古密教のある種、分かり易い所だけが広まっていたのであろう。優れた指導者がいなければ理解しずらいものなのである。
請来目録と最澄
原本は残っていないが、一番古い写本は最澄が書いたもので国宝となっている。空海は帰国して2年都に入ることを許されなかった。その理由は、長期留学なのに2年で帰ってきたことなのか、他の理由なのかは分からない。
ともかく請来目録は提出した。当時の最澄は超有名人で、日本仏教の未来は最澄次第であったと言える。そういう状況で最澄は中国に行った人なので、無名の空海の請来目録を見て驚き衝撃を受けた。そこにあるのは長安にしかないもので、自分が知らない経典ばかり。最澄は長安に入ってないので最新の経典は全く未知なのである。
それで最澄は請来目録を書き写す。それを手元に置いて空海と知り合うと、これを貸してくださいを繰り返す間柄になる。
書写された請来目録はその後、東寺に移って国宝になっている。
請来目録の意味するところ
日本に持ち帰った経典などのリストでもあるが、空海の出国から帰国までは普通ではなくて、関係の人々との思いがけない不思議な出来事があった様子をも伝えている。これを見れば中国での日々が良く分かるし、空海が中国で密教の先生たちとどういう付き合い方をしていたかもよく分かる。
恵果は空海を選んだのである。千人の弟子の中で、空海という選択が無ければ、密教は日本には伝わらなかったのである。空海が帰国して半世紀経ったころ、中国では仏教の大弾圧が起きる。その時に密教は殆ど壊滅する。だからこの機会だけだったともいえる。その時に偶々空海は不思議なめぐり合わせで中国を訪れたのである。
日本は密教の国となる
そして日本は密教の国になった。真言宗、天台宗、南都六宗も全部密教なので日本に合っているのである。密教の大日如来からエネルギ-が流れて出てこの世界を覆っていて、仏は目に見えないけれど無数にいるという世界観と、八百万の神々がいる日本の自然観世界観と密教は重なるところがあるのだ。日本にはしっくりと合ったのではないかと思う。
そして空海によって日本仏教は大きく変わっていく。
「コメント」
偶然の積み重ねということであるが、それを作り上げていった空海という人の超人的なパワ-というべきものがあったのだ。それと対照的な最澄さんには学校秀才を想像してしまう。次回が楽しみ。司馬遼太郎の「空海の風景」を再読するか。