220425④「空海IN長安」

出発までの空海

いよいよ空海が中国へ行く。都の長安で素晴らしい出会いを体験する。日本は飛鳥、奈良、平安時代と約200年にわたって遣唐使に派遣していた。中国に行くには先ず遣唐使に選ばれなくてはならない。801年延暦20年藤原葛野麻呂(かどのまろ)が遣唐大使に任じられる。大使は天皇の名代であるので節刀を授けられ出発するが、瀬戸内海で難破してしまう。この時最澄は遣唐使に選ばれて乗船していたが助かっている。空海は選ばれておらず乗船していなかった。このため再度804年延暦23年に出発する。再度出発ということで欠員が生じ、新しいメンバ-として空海が選ばれた。もし当初の予定通りであったならば中国へは行っていないことになる。空海自身もそう書いている。「時に人が乏しきにあって、留学の末に添う人が足りなくなったので、留学生の末席に加えてもらった。」続日本後紀という国の歴史書に「空海 年31にして延暦23(804)に得度し、入唐留学す」とある。

つまり中国に行く直前に得度した。ということはそれまでは正式の僧ではなかった。遣唐使に加わるには正式の僧の資格が必要となって得度し、いわゆる官僧となったのである。こんな年で僧になる人はまずいない。

 空海遣唐使船に乗り込む 二隻を失い福州に着く

7/6 四隻で肥前松浦郡を出発。第一船に遣唐大使が乗り最澄も。第二船に副使・空海もこれに。7/7 第三船、第四船消息を絶つ。残り二船も波浪に翻弄されて中国に着く。「死生の間を出入り、波浪の上に34日」8/4福州に着く。

そこは普通、遣唐使船はいかないところで南に流されたのである。大使が航海途上遣唐使の証である印符をなくして、自分で文章をしたためたが悪文であった為、疑われて港にとどめ置かれた。

 空海の活躍 福州から長安へ

ここで空海が大使に変わって事情説明文を書く。これが名文であった、又中国語が堪能であった為、一行は上陸を許され長安に行くことになった。11/3長安に向かって出発。正月には皇帝に挨拶する慣習の為に、急がねばならなかった。大使一行は宣陽坊という宿舎へ。12/25 大使は皇帝に謁見、徳宗。ところが1/2 皇帝逝去。

 般若三蔵より華厳経を貰う

勉学目的の者は短期と長期があり、長期は20年である。早い人は行った船で帰ってくる。最速で一年である。20年というのは、皇帝が日本は遠いから特別に20年に一度で良いと言ったからである。当時周辺50国程度は毎年の朝貢であった。空海は長期滞在の組であった。2/11大使一行に帰国の許可が下りたので帰ることになるが空海は残留する。

善無畏が大日経を訳した時に手伝って、大日経の注釈書を作ったのが一行である。その人が亡くなった時に皇帝玄宗皇帝が、一行を称える文を作ったが、それを入手して大使に託している。そして宿舎は最明寺に移る。

長安でまず師事したのは醽泉寺のインド僧・般若三蔵で、特に華厳経の40万本の翻訳をした人。これが大きかった。彼から梵語の経本や新約経典を与えられる。華厳経には三種類があって、60万本、80万本、40万本とあって、40万本は般若三蔵が訳して、空海がそれを貰って日本に持ち帰る。60万本と80万本は、すでに奈良時代に日本に入っていた。

大仏が作れたのは、すでに入っていた60万本の華厳経があったからである。そして空海が帰ってから 一行は大乗本生心地観経 を訳する。後にこれも日本にやってきて、大事にされるものの一つである。三蔵というのは仏教全部が分かっている人の称号である。皇帝が許可するものである。空海は中国に行く時点で、中国語の読み書きは堪能、そして長安でインドの言葉も堪能になる。語学の天才である。

青龍寺の恵果との出会い 灌頂をうけ 遍照金剛の法名を貰う

同年5月、恵果和尚と会う。空海は色々な先生に会っているうちに、偶々恵果先生に会ったと書いているが、所が恵果は全然違って、彼は空海が来るのを待っていた。「和尚は忽ちに見て笑みを含み告げて曰く 我汝が来たらんことを知り、あい待つこと久さしかり。今日相まみえること甚だ良し。」先生の方が言ってくれたのである。何故恵果はそう思ったかというと、もう自分の寿命はない。「法命尽きなんとするに、布法に人なし。→私の命は尽きようとしている。なのにこの密教を私から受け取る弟子がいない。」この恵果には千人の弟子がいるのだが。空海をそういう人だと見込んだのである。早速にこの密教の戒を受けて、6月に胎蔵界の灌頂を受ける。その時に曼荼羅を下に敷いて、目隠しをして花を投げる。その花がどこかの仏の上に落ちる。落ちた所の仏と投げた僧は生涯の関りが深くなるという。空海の花は大日如来の上に落ちた。

そして7月には金剛界曼荼羅に花を投げると、又大日如来の上に落ちる。やはりこの人は特別な人だとなった。

恵果に両界曼荼羅を学んだのは空海を入れて三人だけ。8月に伝法阿闍梨の灌頂を受ける。伝法阿闍梨になると人に密教を教えることが出来る。普通はもっと長期間かかるものである。これは空海が只者でないということを恵果が見抜いたことと、恵果自身の寿命の問題があった。真言宗、真言密教はそもそも言葉や字だけでは分からない、絵が必要ということで絵も描いてもらうことになる。金剛智、善無畏、不空、一行、恵果などの肖像画も描いてもらった。それから密教経典、特に不空が訳した密教経典を20人の人を雇って書写させた。それから密教には法具が必要なのである。全て持って帰ってくる。

そして恵果は空海に遺言を残す。「私の寿命は尽きかけている。宜しくこの両部の大曼荼羅、百部の密教経典、並びに供養の具を本邦に帰りて戒壇に載すべし。」「わずかに汝が来れるを見て、命の足らざることを憂う。→空海がやってきた時、自分の命が尽きようとしていることが怖くなった。それまではもう死んでもいいと思っていたが、空海が来たら死にたくない。全てを空海に伝えるまでは死にたくないと思ったという」そして総てを伝え終えた。早く国に帰りなさい。「
早く東国に帰り、もって国家に奉り天下に流布して、皆を幸せにしなさい」これが恵果の遺言であった。

 何というめぐり合わせ

12月15日に逝去。二人は半年の交流であった。半年遅れていたら恵果に会うこともなかったし、密教の灌頂もなかった。

そもそも当初は遣唐使のメンバ-にもなっていなかったのである。そして何とか中国についても、長安に行くメンバ-にも入っていなかった。そして恵果に出会ってすぐ、恵果は亡くなる。その恵果を追悼する文章を、弟子を代表して書いた。その長い文章の中に自分の事を書いているところもあって、私は遠い国からやってきた。来ること我が力にあらず。帰らん事わが志にあらず。→ここに来ることが出来たのは私の力ではない。 と書いている。本当にそう思ったのであろう。不思議なめぐり合わせである。次に問題がある。どうやって帰るか。次の遣唐使便は20年後である。

 

「コメント」

出来過ぎたスト-リ-である。こんなにうまくいくことがあるのだろうか。何人かの脚本家が知恵を絞ったのか。司馬遼太郎の 空海の風景 でも感じたこと。しかし今流布されている資料はそうなっているから信じるしかない。