220418③「密教とは何か」
仏教とは
密教とは秘密の教えということ。まず仏教の歴史を見てみよう。
先ず仏教は釈迦が説いた教えである。釈迦は紀元前5世紀の人である。本来の仏教は、生きることが苦しみであるというのが大前提で、苦しみの原因は煩悩である。欲望と言った方が分かり易いであろう。仏教ではどんなことにも訳があるという考え方なので、生きることが苦しみである。苦しいのにも訳がある。それは煩悩、欲求があるからである。と言うことは煩悩が無くなったら、苦しみも無くなるのではないか。これが元々の仏教である。煩悩をなくすのは簡単ではない。
その為に精進、修行をする。そして悟りを目指すというのが、元々の仏教である。だから禁欲的で、呪文を唱えるのも駄目でそういうものに頼ってはいけないとする。これが本来の仏教である。
釈迦の時代から500年、紀元前後頃に新しい動きが生まれた。そしてできたのが大乗仏教である。自分の事より他者の救済、幸せにすることを大事と考える仏教が登場してくる。その延長上に又そこからさらに5世紀、釈迦の時代から千年経った頃に密教が登場してくる。
密教の登場
本当にこれが仏教なのかと思うような特徴がある。それは苦しみの原因は煩悩、欲望ではなく願いが得られないことにあるとする。願いが叶えられたら苦しみはないのなら、叶えてやろうではないか、そういうやり方が在るのだというのが密教である。密教は特別な方法を持っている。それまでの仏教を顕教という。本来の仏教から言うと、密教は正反対の教えという所があって、これを仏教と言ってよいのかと思う位変化したものである。
一回目の講義でも話したが、インドで密教は三段階あって、前期 5世紀~6世紀、中期 7世紀、後期 8~9世紀。
中期9世紀になると、理論化・体系化された密教が登場する。その中心になるのが大日経、金剛頂経で、仏は大日如来、そして曼荼羅という仏像を沢山描いた絵が出て来て、そして言葉、真言を唱えるのである。ここで中期密教が完成していく。
密教が中国へ 陀羅尼と真言
これが中国に入り、それを日本に持ってきたのが空海である。陀羅尼と真言はよく似ていて区別がつかないが敢えて区別すると、陀羅尼はインドの言葉によく似た漢字に当てただけである。修行僧が学ぶべき教えや作法というのが本来の意味で、呪文みたいなものを繰り返すことによって何か特別なことが起きたりする。真言もよく似ているが、インドの言葉のマントラ(讃歌、祭詞、呪文)の意味を取って漢字に翻訳したものである。仏様毎に自分の真言を持っていて、そしてその仏様を思いながら真言を唱えると、素晴らしく良いことがあるとする。
密教は秘密の教え 密教は言葉の力である
これは内緒にしているというのとは違う。仏の究極の教えというのは、人間には理解しづらい。だから分からないので、秘密っぽくなってしまう。例えば真言も陀羅尼も日本語に訳さない。例えば般若心経ギャ-テ・ギャ-テ・ハーラギャ-テ・・を訳すると→行こう、行こう、さあ行こう、みんなで行こう となる。これより原語の方が、迫力がある。言葉に力があるのである。
密教は言葉の力、それは意味ではなくて音である。音の力というのが密教では大事にされる。
密教と顕教の伝授の仕方の違い
密教と顕教の違いであるが、顕教 普通の仏教であるが、弟子に教える時に先生が大勢の弟子に向かって話をする。言葉、文字で多くの人に伝えるのである。ところが密教では、先生は一人の弟子にだけに伝える。しかもそれは水がいっぱい入っているコップがあって、弟子は空っぽの同じ大きさのコップを持っていて、先生が満々と入っている水を一滴残らず、その弟子のコップに注ぎ入れるのである。密教では弟子がそれを受け入れられるレベルが必要とされるのである。
密教は結果を出す 欲望を否定しない
それから教えそのものより、目に見える効果を求める傾向がある。
息災(そくさい)→マイナスが無くなる事、増益(ぞうやく)→プラスが増えること、敬愛(けいあい)→人から好かれること、調伏(ちょうぶく)→悪い奴をやっつけること。こういう目に見える結果を出してくれる。一生懸命に勉強しても修行しても、目に見える結果はない。自分が進歩しているのか前進しているのかも分からない。ところが密教では、マイナスを消してくれてプラスを増やしてくれる。そして悪い奴をやっつけてくれるような所がある。こういう欲望を否定しない。マイナスを減らしたいというのは欲望であり、プラスを増やしたいというのは更に欲望である。密教は欲望を否定しないし、それを遂げさせようとする。生きることを肯定するのである。生きることは穢れることである。どんどん穢れていくし、周りを穢していく。それでいいのだ、どこが悪いのだ、いいじゃないかというのが密教なのである。だから釈迦の教えと大きく違っているのは確かである。
密教は神秘的、象徴的、儀礼的、総合的である
密教は神秘的、象徴的、儀礼的、総合的である。これは秘密の教えだから神秘的にもなるのである。象徴的とは、曼荼羅という仏が沢山描かれているものがある。儀礼的というのは密教が教えそのものより、教えられた通りやるのである。教えそのものより、こうやるよという所が密教の特徴である。事相というのがある。修法、灌頂など実践面なことをいう。
教えの事は教相という。密教は事相の集大成のような所がある。そしてお祈りのやり方があり、護摩をたいたりする。
総合的であるが、密教は何も否定していない。レベルは低いことは低いけれどそれはダメではない。最高は勿論真言密教であるが、最低最悪のような性欲と食欲しかないような生き方も否定しない。これは総合的に総てを包み込むような所がある。
大日経系と、金剛頂経系の密教の誕生 善無畏 金剛智 不空 恵果 空海
大日経系と、金剛頂経系の密教が、インドで二つ別々に誕生する。大日経系が善無畏(ぜんむい)、この人が中国にやってくる。そして大日経の解釈をする。前回の講義の最後に話した大日経は、善無畏が訳して口で言って、弟子の一行が書き留めて大日経は出来上がるのである。虚空蔵求聞持法も善無畏が訳している。一行は後に大日経の注釈書を書く。お経そのものよりはその解説書の方が、現実的には有用で大切にされた。空海も大日経よりもむしろ解説書の方を大事にしている。
善無畏、一行によって中国に伝わり、普及していく大日経の密教が一つ、もう一つ金剛頂経の系統は、金剛智(こんごうち)というインド僧からスタートする。南インドで密教の金剛頂経系統の密教が盛んであった。
伝説上の人である竜知(りゅうち)・密教を伝えた第四祖 は竜樹より密教の法を受け、金剛智に伝えたとされる。
そして金剛智は善無畏と同じ時期に中国にやってくる。同じ時期に、密教の二つの流れをくむ二人がいたのである。
金剛智の弟子が不空。不空の時代が中国密教の全盛期。金剛智が亡くなった後で、金剛頂経の完全なものが無いとして、インドに行って完全なものを持ち帰ったのが不空であった。超大物である。大日経の一行、金剛頂経の金剛智二人の弟子が恵果、空海の先生である。恵果の所で密教二つの流れが合体するのである。そこに空海が行って、全部貰って帰ってくる。
曼荼羅 胎蔵界曼荼羅 金剛界曼荼羅
ランダムに適当に書いてあるのではなくて、理論に基づいてグル-プに分け、仏が描かれている。曼荼羅には色々あるが、東西両横綱のような曼荼羅は、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅である。大日経の系統で作ったのが胎蔵界曼荼羅、金剛頂経の系統で作ったのが金剛界曼荼羅である。元々は別々であったが、恵果の所で合一され一つになった。
胎蔵界 上が東、下が西。元々はお堂の左右に掛ける。東に胎蔵界、西に金剛界。そうするとエネルギ-が東からやってきて、胎蔵界の上、東から入って曼荼羅を通って西から出る。そして西にかかる金剛界曼荼羅のほうにパワ-が流れている。その流れの所に人が座っている。その人を通ってパワ-が流れていく。そういう風に曼荼羅は使われているのである。
胎蔵界曼荼羅
胎蔵界曼荼羅の真ん中に中台八葉院という蓮の花の絵があって、そして区画毎に色々な仏が描かれている。中台八葉院には赤い蓮の花があって、その真ん中に大日如来が座っている。そして花びらが八つあって、そこに色々な如来や菩薩が座っている。中央に大日如来。太陽のような仏である。大仏と一緒ではないか、毘盧遮那仏と一緒である。大宇宙の中心にある命であり、永遠に真理を説き続けているが、それは人間の言葉ではない。
金剛界曼荼羅
九つの四角から構成されている。上が西で下が東。区画の真ん中の成身会(じょうじんね)という所が一番大事。その下に三昧耶会(さんまいやえ)。仏を描かないで代わりに道具を置く。右上の区画が理趣会(りしゅえ)。
成身会(じょうじんね)
真ん中に大日如来がいる。それから大日如来の周りには顔がびっしりとあって、これは千体の仏が囲んでいるのである。
つまりこの世界は見えないけれど、仏が密集している世界に私たちは暮らしているのだというのが密教の世界観である。
三昧耶会(さんまいやえ)
仏を描かないで仏具を描いている。蓮の花の上に普通仏がいるがいない。道具が載っている。
理趣会(りしゅえ)
面白くて、真ん中に金剛薩埵(こんごうさった)という清らかなシンボルみたいな仏がいて、その周りを欲触愛慢(よくそくあいまん)という欲望の菩薩たちが取り囲んでいるという絵である。清らかさと欲望は同じだよ、煩悩と悟りは同じだよとここで言っているのである。
曼荼羅の使い方
例えば金剛界曼荼羅は真ん中の成身会(じょうじんね)から始まって下の三昧耶会(さんまいやえ)に、左横の微細会(みいえ)、左中の供養会(くようえ)、左上の四印会(しいんね)、中央上の一印会(いちいんね)、右中の降三世(こうざんぜ)、右下の降三世三昧耶会(ごうざんぜさんまやえ)と進むことで、最高のものが世界の総てに伝わっていく事をイメ-ジしているのである。
逆周りがあって、右下の降三世三昧耶会から最後に成身会(じょうじんね)の所に辿りつくという、大きな二つの流れがあってそれを金剛界曼荼羅の前でイメ-ジするみたいな使い方もある。曼荼羅は使うものである。
三密加持→即身成仏
そして三密加持(さんみつかじ)をして仏と一体になる、これは空海がとても大事にしていることであるが、これを即身成仏という。三密加持(さんみつかじ)、真言宗ではこれが一番大事なことで、これなくして真言宗は無いと言ってもいい。
三密というのは、身密(しんみつ)・口密(くみつ)、意密(いみつ)、身に印を結び、口に真言を唱え、心に本尊大日如来を念じる ことをいう。人間の三密と仏の三密を合体化したので、即身成仏出来るのである。
三密をすることによって、仏の身密(体の秘密)と一緒になれるのである。口密というのは口に真言を唱え、大日如来と合体していく事である。意密というのはその大日如来の姿を念じることで、想像力を働かせると見えてくる。三密を行うと段々パワ-が増してくる。実は仏から力が来ているのである。普通はキャッチ出来ないが、この三密をやるとキャッチ出来るようになる。それを加持という。加わってきたパワ-をキャッチして保つのが加持である。三密をやると加持出来る様になり、そうすると仏と一緒になれる、即身成仏である。
空海の目指す一つのゴ-ルは即身成仏である。そうすると喜びを持って生きることが可能になる。
聾瞽指帰、三教指帰で、儒教は駄目道教も駄目仏教だと、でもその仏教もまだ不十分。それは喜びを持って生きる事が可能になる仏教ではまだないからという。それをする為には、密教が必要だと空海は思い、中国に行くのである。
「コメント」
今日は知らない事ばかり。空海には偏見を持ってみていたので、それがかなり邪魔していた。曼荼羅を見に行こう。