220411②「若き日の空海」
誕生より阿波や土佐での修業時代
空海は奈良時代・宝亀4年774年6月15日に讃岐国今の善通寺市で誕生。真言宗ではこの日を記念して青葉祭を行う。幼名は佐伯真魚(まお)。父は郡司の佐伯田公。15歳から平城京の一族佐伯今毛人(いまえみし)の立てた氏寺の佐伯院に滞在し、母方の叔父の阿刀大足(あとうのおおたり)について儒教中心に学んだ。そして18歳で大学に入る。儒教中心の官吏養成機関である。しかし勉学に飽き足らず、19歳を過ぎたころから山林での修行に入る。
この時期一人の沙門あり、空海に虚空蔵求聞持法(こくうぞうくもんじほう)を教えてくれた。虚空蔵菩薩を本尊とする密教の祈りである。これを唱えると記憶力が良くなって一回読んだ経を忘れないという。
三教指帰(さんごうしいき)の序文にその頃のことが書いてあって「自分は15歳で叔父の阿刀大足について勉強を始めた。18歳になり大学で徹底的に勉強をした。そこに一人の僧がやってきて、虚空蔵求聞持法を教えてくれた。虚空菩薩の真言というのがあり陀羅尼と似ている呪文であるが、それを百万遍唱える。すると全ての事を記憶できるようになると教えてくれた。それを信じて阿波や土佐の山で修行していたら、明星が飛んできた」という神秘体験をする。
行然による真言宗の歴史 道慈→弟子→空海
鎌倉時代後期の東大寺の学僧で行然(ぎょうねん)という人がいてインド、中国、日本の仏教史の本「八宗綱要」を書く。インドで生まれた仏教が中国を通って日本にきて、日本ではこうした展開をしたということを記した初めての仏教史である。
それによると真言宗は、入唐僧の道慈(どうじ)がインド僧から伝授された虚空蔵求聞持法を日本に伝えたところから始まるとする。そして弟子が勤操(ごんぞう)→空海と書いてあって、これより空海に虚空蔵求聞持法を空海に教えたのは勤操ではないかと言われている。しかし近年それと違う説が出て来て、道慈の別の弟子・戒明から空海に伝えられたといわれる。勤操と空海とは師弟関係ではなく、友達という関係であったろう。
真言宗の始まり
いずれにせよ鎌倉時代には真言宗の始まりは、奈良時代にあってそれは道慈が虚空蔵求聞持法を日本の持ち帰ったのが始まりであるというのが認識であった。さて戒明は大安寺の僧で、唐に行ってインドの龍樹の書物「釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)」という本を持ち帰る。ところが龍樹の書ではなく、中国か朝鮮で作られたもので、偽物説が有力である。特に真言密教関係者でいまでも大事に研究されている。戒明から直接学んだ空海は、内容が素晴らしいので、偽物でもいいとしたのであろう。
大安寺
最澄は偽物はダメ、空海は内容が良ければそれでいい とのタイプである。どうも空海は戒明からいろいろなことを学んだようである。大安寺という寺は奈良時代の前半までは、日本最大の寺であった。日本に仏教が伝来して最初は豪族たちが寺を建て始めるが、伝来後百年で舒明天皇が飛鳥に初めて建てたのが、百済大寺、大安寺の前身であった。平城遷都で奈良に移転し大安寺と称し、戒明もここにいて、空海もここにいたとされるが確証はない。但し大きな関りを持っていたのは間違いない。
空海が勉強中の頃の奈良時代末期の日本仏教
奈良時代最後の天皇、光仁天皇が僧侶批判をしている。「近年の僧は俗人と同じてある。賄賂を使って財産を作り指導力がない。自分の得になる事しかしない。仏教は鎮護国家の為であるのに、今の仏教は力がない。」光仁天皇の次が桓武天皇。戒律を正す為に妻帯をしている僧侶を追放した。
修行者たち 元興寺の護命(ごみょう)
堕落した僧だけではなく真剣に修行している僧もいた。そういう人たちは山林修行で山に入る。例えば元興寺の護命は吉野に行って虚空蔵求聞持法を唱えながら修行した。そして自然知(じねんち)を得る。→その人間に備わっている優れた知恵のこと。修行によってスーパ--パワ-を得たということか。当時何か思いがあったり、志のある人は山で修行したのである。最澄も空海もその流れの中にいる。空海が書いている。「弱冠より知命に及ぶまで、山荘を家とし全目を心とす」 弱冠 20歳、知名 50歳。→20歳のころから50歳まで修行をしていた。
大学を中退して山林修行を始めた頃に本を書いている。
聾瞽指帰(ろうこしいき) 24巻 仏法に暗いものが従うべき規律。 聾瞽 耳が聞こえない、目が見えない人を指す
聾瞽 というのは煩悩の闇に閉ざされて真実が分からない人。そういう人たちに示すこれだという内容である。この本はやがて少し手を入れて、三教指帰と名前を変える。概略すると「ある若者がいて遊んでばかりいる。心配したおじさんが亀毛(きもう)先生という儒教の先生に頼んで儒教を教えて貰うことにする。しかし空海は儒教は単なる立身出世の教えでもう儒教は終わっている、古人の糟粕(そうはく)→カス だと言っている。次に道教の専門家の虚亡隠士(きょぶいんじ)が出て来て、少しは効果があったがやはり駄目。道教は自分が仙人になる道を選んでいて、他の人のことなど考えていないという。そして仏教が登場する。仏教を説くのは仮名乞児(かめいこつじ)といい、ぼろを着て汚い青年修行僧である。若い日の空海とされる。そして仏教を語る。その結果遊んでいた若者だけでなく、儒教や道鏡の先生も、仏教に帰依してしまう」というストーリ-である。これは芝居の脚本の様に書かれている。
仏教は自分の事だけではなく皆を救済しようとするのが、すばらしい所であるという。でもまだ仏教には疑問がある。十分ではないというのが24歳のデビ-作である。
大日経と出会う 橿原市 久米寺
空海は久米寺で大日経に出会ったとされる。これは中期密教の大事な経である。日本にあったのである。それで日本で出会ったとされている。奈良時代に大日経は日本に入っており、写経されていた。奈良最大寺が持っているものが国宝とされている。この大日経を訳したのは、インド人で唐に渡った善無畏、この人が口で訳して 一行という人が書き写した。
空海は入唐前に大日経に出会っていたと思われる。密教というのは独学では分からないところが多く、優れた先生につかないと大事なところは分からないとされる。空海は中国に行きたいと思うようになっていく。
若き日の空海は大学に入って学び始めるが、大学はもう終わっている教がメインなので、次は仏教だと思う。しかし今の仏教には物足りない。大日経に出会って、これだこれをもっと知りたいと思うのである。
「コメント」
インド中国日本にこの時代、いやもっと昔から生きる意味、宇宙の成り立ちを求めて考えていた人々が多くいたことに改めて驚く。もし、それが栄達の手段としても。