220614⑪「霜月騒動と朝廷の両統迭立」
1272年、後嵯峨天皇が崩御すると皇位継承を巡り、二人の息子が分裂、二人で相互に皇位が継がれるようになる。
この「両統迭立」によって、北条時宗の補佐役であった安達泰盛と武家の棟梁と呼ばれた平頼綱が争いを起こす。
「霜月騒動」。何故、この様な内部抗争が起きたのか。その切っ掛けになった両統迭立について考える。
この辺りは研究がそれほど厚くなく、今日は話は私のオリジナルの考えである。それなので眉唾でお聞きください。
御成敗式目と追加法
1166年、6代将軍の宗尊親王が追放される。次の将軍は長男の惟康親王となる。この辺から幕府の中で激しい争いが起きているのではないかと思う。と言うのは追加法というものを読んでみるとこれが分かる。
追加法→御成敗式目を補充、追加、改廃するための発布した法令。御成敗式目は51条からなるが、成立当初各地の御家人を回って周知徹底した。しかし此の51ヶ条だけでは、変化する事柄に対応できない。という事で、幕府は個別に次々と法を出していく。それを後世の歴史学者が集めたものを追加法という。よってこれで全てと言うことは出来ない。偶々残っていたものだけである。
幕府の法の認識
笑っちゃうことは、当事者の幕府が、自分たちはどういう法を出したかの記録をしていないことである。我々は困ってしまう。現在は、更に判決は判例として法に準ずるものとして認識されているのに。鎌倉幕府はどんな判決が下ったかという事を、記録していない。という事になると、チグハグな判決が下る可能性があった。実態は、御成敗式目は皆が知っているが、実際に使われる追加法や判例は、関係者も知らないなどと言うことが頻発する。
幕府の裁判の不思議 朝令暮改 二人のリ-ダ-
御成敗式目や追加法でこれは変だなと言う例を話す。文永4年 1267年 追加法433条。ここに書かれているのは徳政令である。この場合の徳政令は、永仁の徳政令の原型になったものである。借金棒引き令である。所がその3年後、1270年 追加法443で、「433の徳政令は廃止」という事になる。そして文永10年追加法452で、徳政令が又復活している。
こんなバカなことがあるかと思った。いくらいい加減な幕府でも、こんな事にはならないのではと思ったが、この頃の幕府内にはリ-ダ-が二人いたことに気付いた。
時宗の実像 優れたリ-ダ-とは言えないのでは→御家人と北条得宗家の乳母父の執事との対立を制御できなかった
つまり執権は北条時宗、この時宗は戦前には、日本をモンゴルの襲来から救った英雄であると高く評価されて、大河ドラマにもなった。所が私は調べてみると、この人はあまり優れたいたというのは、違うのではないかと思う。時宗には補佐役がいた、有力御家人・安達泰盛である。それともう一人のリ-ダ-が内管領・平 頼綱である。源頼朝以来繰り広げられてきた北条氏と有力御家人の最後の抗争であり、この結果有力御家人は壊滅し、平 頼綱率いる北条得宗家被官勢力が伸長した。この二人の政策の違いが、徳政令を巡る争いに影響したのである。
例えば文永8年1271年に、日蓮が手紙を書いている。平 頼綱に呼びかける所がある。
「貴方は今、天下の統領であるけれども…」そういう呼び方をしている。つまり日蓮と言う客観的な人から見た時に、平 頼綱は、武家の統領である位の力を持っていると見なされていた。これはどう言うことであるか。つまり徳政令でだれが徳をするか。つまり御家人の利益を考えると徳政令は都合が良いことなのである。御家人が自分の土地を一般の人に売る、そこで徳政令が出て、勝った人は無償でその土地を返却しなければならない。そういう無茶な法令が徳政令なのである。結局徳政令を出すという事は、御家人の利益しか考えていないという事である。
北条氏の目覚め 民生を考える
この原因はそもそも鎌倉幕府の成り立ちにある。鎌倉幕府と言うのは坂東武者→御家人たちの利益を追求するための政権なのである。御家人の利益を第一に考えるというのは、ある意味まっとうなやり方なのである。
だが御家人も段々勉強していく。その結果として、俺たちは社会のリ-ダ-として政治を行わねばならない、社会に生活している農民、商人等に良い未来を良くしなければならないというリ-ダ-として覚醒する部分がある。
時頼(時宗の父)は、民を愛しなさい、民を愛する政策を作ろうという風に言っている。時宗の時の徳政令は、この考え方をひっくり返すことになる。御家人たちだけが良ければいいという自分勝手な考え方なのである。
極楽寺重時の詠居を受けた安達泰盛
時頼の民を愛せよと言った考え方の師匠は、極楽寺重時。北条氏の一門で、二代目執権北条義時の三男。三代執権泰時から五代執権まで補佐をした。鎌倉幕府の安定に大きく寄与した。極楽寺重時と非常に密接な関係なのが安達泰盛、だから彼こそが民の利益しっかりと考えなければならないと言った人であり、もう一方の平 頼綱は、御家人の利益が
第一と言った人である。そうすると、徳政令が出たり引っ込んだりと言うのは、幕府の中で安達グル-プが優勢な時は、徳政令が引っ込む、平 頼綱が力を持つと徳政令が出る。そういう事なのだと思う。
両統迭立 持明院統(後深草系) 大覚寺統(亀山天皇系)
極楽寺重時が京都の六波羅探題をしていた時期、協力関係に有ったのが、後嵯峨上皇であった。文永9年に後嵯峨天皇没。遺言もはっきりしていなくて、結果として次の後継は誰なんだという問題が出た。候補者は二人、説明は煩雑になるので省略するが、後嵯峨上皇の二人の子の系統である。後嵯峨天皇は、兄 後深草天皇に譲位して院政開始。次男を皇太子とする。そして後深草天皇から次男に譲位させ 亀山天皇。そして、亀山天皇はその子、後宇多天皇に譲位。故に後深草系と亀山系は、その後について争うことになる。裁定は幕府に持ち込まれた。
亀山天皇は朝廷の訴訟制度を整備したり、社会の身分秩序を律する方を制定するなど、政務に励んだ。弘安の徳政という。同じ頃、幕府でも安達泰盛が主導する徳政が行われており、公武両徳政には密接な関係があった。
その後、朝廷と幕府の折衝の中で、両統の迭立が行われるようになる。経緯省略。
どうしてこんなことが起きるのか。天皇を越える発言力を持っている人がいるからこうなるのである。普通、天皇が後継者を決めれば決着のはずである。それは朝廷を越える幕府及びそれを動かす北条氏の存在である。当時朝廷は幕府に伺いを立てないと、天皇が決まらない状況であった。この為に妥協の産物として両統の迭立となる。
幕府の見解
二つの見解があったように思う。
一方のグル-プは、朝廷をパ-トナ-として、朝廷との一本化を考えた。亀山天皇側と一緒に徳政をやろうと。
一方、朝廷は幕府にとってライバルで、うかうかしていると潰されるという考えの人もいた。朝廷の力を一本化させないように両統迭立を推進する。
この方式は後に、徳川家康が本願寺勢力を警戒して、本願寺を東と西に分割して統治した考えに続く
安達泰盛は極楽寺重時の影響を強く受けていた。又重時が京都にいた時に、後嵯峨天皇と手を組んでいたことから察するに、その意図を受けて亀山天皇に政治を委ねたいと思っていたであろう。その根拠は、朝廷は幕府のパ-トナ-で、日本全体の政治に責任を持つべきと思っていたはずであある。
一方の平 頼綱は、朝廷はライバルであるとし、朝廷の力を分割したいとして、両統迭立を推進し、幕府内でも実権を握っていったのだろう。
モンゴル来襲と両統迭立との関係
そうした状況の一年前にモンゴルの来襲があった。だからモンゴルの来襲という危機的状況とこの両派の対立を、総合的に考える必要がある。私は今の所、そこまで研究が行っていない。モンゴル来襲と幕府の状況を一緒に説明出来たらいいなと思っている。
それから2年後、建治3年1277年 この年には塩田義政(北条義政・極楽寺重時の五男、六波羅探題を経て連署として時宗を補佐)が連署を解任されて、領地の信濃の塩田平に隠棲する。これで時頼より始まる民を愛する徳政の流れは
断ち切られる。いわゆる極楽寺北条の中心人物であったのだが。これは、対立する平 頼綱の画策であったろう。
しかしこの後、安達泰盛グル-プが力を回復していくが、1285年の霜月騒動と繋がる。それから次の会の平 頼綱の粛清と言う話は、密接な結びつきを持つので、次回に話す。
「コメント」
鎌倉時代と言うのは、御家人たちと朝廷との関係の中で、揺れ動いていくのだ。又御家人たちの合従連衡。源氏の源 頼朝以下は、単なる頭で実際的な権限はないに等しいと判った。世の中はそうであろうな。