220607⑩「二度の元寇」
1274年・1281年、当時中国を支配していたモンゴル帝国(元)が日本を襲撃する。文永の役・弘安の役。
二度の襲来を食い止めたのは鎌倉幕府の執権・北条時宗であるが、もし彼に外交能力があれば、
この襲撃はなかったかという説がある。今回は、時宗の外交にどのような問題があったかを話す。
モンゴルの来襲については、正直言って研究の厚みがない。そうなると解釈が非常に難しくなっていく。
今日は私の説を話すが、こういう風に考えることも出来るという事を話す。勿論違う考え方を持つこともありだという事である。
モンゴルは何故来襲したのか
モンゴルであるが、基本的にはジンギスカンという英雄が現れて、世界帝国を作った。ジンギスカンの世界帝国はなぜ生まれたのか。一つは鉄の技術があげられる。蹄鉄技術が進化したために、馬に蹄鉄を打って、その蹄鉄を付けた馬が長い距離を走ることが出来る様になった。モンゴル兵士は馬を
5頭連れて、乗り換えながら長い距離を走る。食物が無くなったら、馬をつぶして食糧にする。よって
食糧のない過酷な旅路を経て、遠い所まで攻略できることになった。こうして、ジンギスカンは大帝国を作った。それでジンギスカンの末裔である元と言う帝国が、中国大陸に生まれたのであるが、
その元の皇帝であるフビライが、二回にわたって日本来襲をした。これが元寇である。先に言ってしまうとそれがどういうつもりだったのか。つまり一つ考えられるのは、フビライは来襲して、征服したがっていたということか。だから日本を本気で征服するつもりで二回も来襲したという考え方がある。
フビライは日本の征服は考えていなかったのではないか
そうではない考え方としては、例えば日本の出方によっては、フビライは何も日本に兵を送り込んでこなかった、とりあえず関係性を築いて、それで安定的に国交を結ぶという考え方の研究者もいる。今は学会でどっちが優勢かと言うと、後者である。
フビライに対して礼を尽くして何らかの対応をしていれば、フビライは日本に攻めてこなかったと考えている研究者は多い。
日本史側からの研究がとても少ないと言ったが、最近成果をあげているのは、モンゴル帝国史を研究して、その結果、フビライは日本を征服するつもりはなかったのではないかと言う意見である。
使節団の来日
戦前、北条時宗は、元の侵攻を退けた救国の英雄として作り上げられていた。では具体的にどうであったか。勿論突然船がやってきて、戦いを挑んできた訳ではない。1268年文永5年、この年に高麗の使節団が大宰府にやって来る。この年には高麗は、モンゴルに完全に従っていた。
只、王は完全にモンゴルに従属していたが、武人たちはまだ抵抗を続けていた。三別抄の乱である。武士たちは戦い続けて居る事を考えておくべき。けれど、王は完全に従属化していた。そしてフビライの意を受けた高麗の使節団が大宰府にやって来る。大宰府の代表は、御家人でもあった筑前守護の少弐資能(すけよし)である。彼に提示されたのは、フビライの書簡、高麗王の書簡、使節団の添え状。少弐は鎌倉に送る訳であるが、鎌倉幕府は、一応外交は朝廷という事で、朝廷にも知らせる。
朝廷は読み、意味を理解し、返事の下書きを作る。どうして私達がそのことが知ることが出来るかと言うと、これは東大寺の僧が此の書簡の写しを残していたからである。我々はこの事で事情を知ることが出来るのである。
フビライの書簡の概要
「天の美しみを受けるモンゴルの皇帝は、日本国王に奉じる。朕、思うに、古より小さな国の王と言うのは、国境が続いていれば、お互いに通信をする。そして親睦を深める。まして私の祖父のジンギスカンは、明らかに天命を受けて、大きな帝国を作った。帝国を作ったことによって、沢山の国の国王が権威に服して、頭を下げている。私が即位した当初、朝鮮半島の高麗と言う国はモンゴルと戦っていたが、余りにも長引いたのでそれを止めさせた。そして高麗領土を高麗に返した。そうすると高麗の人々は感謝をして我がモンゴルにやってきて、それで家来となった。その事を日本国王も知っているであろう。だから日本と言う国は高麗に近いから、ともかく我がモンゴルに使いを出しなさい。未だに使者を派遣しないというのは、世界の変化を知らないのではないか。だから、ここに世界の変化を知らせるから、よく考えて返事をしなさい。それで我がモンゴルに対して、敬意をもって使いを派遣しなさい。東アジアは一つの家族である。主は勿論モンゴルである。家族であるのだから、ちゃんと挨拶をしなくてはならない。戦いをするという事は誰もが嫌な事だ。その事をしっかり考えて欲しい。」そして不宣という言葉で終わっている。
つまりは使いを出して、敬意を表しなさいという事なのである。そうしないと闘いになるよ、お前たちは勝てないよ。
不宣 ふせん すべてを述べ尽くしていないという意味
この国書がどういう性格のものなのか。
モンゴル史の杉山京都大学名誉教授は、次の様に述べている。
実際にフビライは戦いを好まない人であった。日本に対しても戦いを積極的にしたい訳ではなかった。だから日本がキチンと頭を下げて、使いを派遣すれば戦いにはならなかった筈である。
私もこの考えに賛成である。その根拠になるのが、最後に不宣と言う言葉で終わっている。古文書と言うのは、どういう書式で書かれているかと言うのが、重要である。
私達も拝啓で書き出して、敬白で終わる。こう言う文書の様式がある。例えば前略と言う風に書き出して草々で終わる。前略と書き出すものと、拝啓で書き出すものとは、丁寧さが違うのである。前略と書くのは友達、目下の人への手紙。拝啓、敬具とは丁寧さが違う。古文書と言うのは、その様にル-ルがとても重要である。この書簡の最後に不宣と書いてある。これは非常に丁寧な文書である。そうした文書が日本にもたらされた。上から目線で書かれたものではない。戦争やりたくないよねと、書いてある。だからその意味では非常に丁寧な文書なので、もしかするとフビライはなるべく戦争はしたく無かったと推察される。
日本は今までの中国との付き合いを見ると、日本は中国王朝にとって例外的な国なのである。それはどういうことかと言うと、ずっと昔から中国と言うのは中華思想というものを持っていて、東アジアの中心にあるのが中国であり、中国とは素晴らしい文化が育まれている。その中心にあるのが皇帝である。天の命を受けたのが皇帝である。だから周辺諸国は皇帝の徳を慕って、挨拶に来なければならない。その際に貢物を持ってこなくてはならない。貢物を持ってきた国に対して、中国皇帝はその徳を示す為に使者を大歓迎して、そして10~20倍の土産を持たせる。こう言うことがしきたりであった。これに乗って、室町時代の
足利義満は、日明貿易で大変な利益をあげたのである。こうした状況で、昔から日本と中国とは付き合いをしてきた訳で、その時に地続きの朝鮮とかベトナムはとても厳しい扱いを受けている。朝鮮、ベトナムの王様は中国皇帝の家来なのである。
そして中国皇帝が、朝鮮やベトナムの王の正統性を保証することは、皇帝の権限であった、
そして、元号を朝鮮もベトナムもかっては使っていたが、これは中国の元号でなければならなかった。自分たちで勝手に使うと絶対に許されなかった。漢字文化圏である。
元から見た日本の存在
こうした時に日本の状況を考えると、日本では元号は自分で自由に作って使うし、これ等の国々では、毎年貢物を持って中国皇帝に挨拶を行くが、日本は気の向くままである。
遣隋使、遣唐使を派遣していたが、これは自分の都合である。しかもかっては倭と言われた国名を嫌がって、日本と称し認めさせている。
日本と言うのは敬意を持たれていたのではなく、東アジアの外に位置するお客さんみたいな存在ではなかったかと思う。だからモンゴルの中で、フビライと言う中国風の王朝を立てたとなると、徳の有る皇帝であって、周辺諸国は挨拶に来いとまじめに考えていたのである。そういう意味で日本が、きちんと対応を間違えなければ、モンゴルは攻めて来なかったと思うのである。例えば、きちっと北条政権がその辺の事をしっかり勉強して、使者を北京に送って外交を展開していたら、恐らく北条時宗に対して「汝を日本国王にする」という使者が来て、元の文化を慕って、偶に使者を派遣するようになる。と云うような手紙が来て、元との関係は安定したのでないかと思う。
火薬の原料
研究者の中には、やはりモンゴルは日本の硫黄が欲しかったのではという人がいる。黒色火薬の原料は、黒炭、硝石、硫黄。中国では硫黄が不足していた。日本には豊富に存在する。故に日本征服をしたかったという人もいるが、その旨味は少ない。
厳密に言えば、火薬を大量に必要とするのはもっと後のことである
又黄金の国ジパングと言うが、金が本格的に採掘されるのは戦国時代以降である。
そういう事も含めて、時宗は実はぼんくらだったのではないかと言うのが私の評価。その意味で言うと、元寇はまだまだ研究する余地がある。
「コメント」
世界の事情に疎く、偏狭な愛国主義で外交を行うのは、この後も続く。今もそうでないことを望む。それにしても、第三次モンゴル来襲が無くて良かった。