220503⑤「源実朝利暗殺」
源頼朝と北条政子の次男として生まれ、兄の頼家を将軍の座から引きずり落して座代将軍となった実朝。実朝は京都の朝廷に親近感を持ち、文武に優れた後鳥羽上皇に忠誠を誓っていた。次々と
官位を上げて武士として初めて右大臣となった実朝だが、1219年鶴岡八幡宮で暗殺される。何故彼は暗殺されたのか、朝廷に近付く実朝を北条氏はどう見ていたのかについて話す。
まず復習をする。私見であって定説はない。
頼朝は朝廷優先 御家人は関東優先
頼朝と御家人の間には大きな意見の違いがあった。頼朝は、朝廷という、政治の権力に認めて貰う事が政権を安定させる、つまり鎌倉幕府という全く新しい政権が生まれた訳だから、朝廷という貴族の意向を気にしていた。
幕府は田舎の武士で構成されている。基本的には貴族と相容れない。
そういう事で関東の武士が鎌倉幕府という形で、自分たちの政権を生み出すわけである。であるから、頼朝の考え方とは違うという事からスタートしていく。
頼朝は既存の朝廷という物を認め、それに認められて、初めて正統性を得るのだという意識である。
所が関東武士の代表である上総介広常、これは、俺たちは俺たちの実力で関東を支配するのだという、つまり武力を持ったものが支配者である論理である。そこには朝廷などという物は存在しない。恐らく関東武士の本流の考え方はこうであったであろう。
上総介殺害事件 官僚の活躍
頼朝はこうして上総介広常を殺害する。だからそうした生き方すると、殺されるなと分っていく。やっぱり頼朝の言うように朝廷を尊重しないとダメなんだな、自分の土地で税金を徴収して、京都に送らねばならないと気付くようになる。
でも基本的には頼朝と関東武士団の間には大きな考え方の違いがあった。
いわゆる幕府の京都の官僚(大江広元・三善康信、中原親能、二階堂行政)-13人の内の文官4人。
頼朝は後年には、これら官僚的な人々を手足として政治を行った。そこには武士団は入り込めない。梶原景時などの限られた文武両道の武士が若干参加できただけで、武士の介入の余地はなかった。
結局武士に不満が溜まる。不満が噴き出す形で、中頃になって、時政・義時などが動き出してくる。
仲間割れや手を握るという形で、争いが繰り広げられていく。
政子・義時による父・時政の追放
義時が権力を握ると、関東武士団は関東のやり方で行こう、朝廷は関係ないのだという立場になっていく。その完成形となった時には、鎌倉幕府というのは、最初頼朝がその仲間たちとで出来ていたが、やがて義時とその仲間たちという形に代わっていくのが大きな流れである。
頼家と実朝
ここで重要なのは、この変化によって、幕府の性格はどう変わったのであろうか。
頼朝は常に朝廷を意識していたが、義時は基本的には朝廷に背を向けている。その中に実朝の暗殺というのを、位置付けて見ると良く解る。実朝は鎌倉幕府の頂点に立つが、その実朝と二代将軍頼家の違いは何か。二代将軍頼家は北条政子の次男ではあるが、生まれてすぐ比企氏の乳母がついた。比企で育ち、正室は比企能員の娘。頼家が将軍として活動を始めた結果、外戚の比企氏が力を持つようになっていく。北条氏にとってはまずいことになってきた。
北条氏は武士団としては、とても小さく比企氏には対抗できない。だから北条氏は頭を使うことになる。様々な権謀術策を使わねばならなくなる。きたない手も使う。
故に頼家を二代将軍から引きずりおろし、実朝を三代将軍とする。実朝の乳母は、政子の妹の阿波の局で、北条の家で育っている。
実朝が活動し始めると、北条氏は復活するはずであった。所が実朝は、京都に親近感を持ち、政治を行った所に問題が発生する。関東御家人を大事にしないような印象で見られた。和歌をたしなみ、師を藤原定家とする。又妻は京都より後鳥羽上皇の縁続きの坊門信清の娘。そして、いわば官打ちとも言われる官位を上げていく。基本的に京都を向いての政治となっていった。こうした事が御家人たちとの乖離を生んでいく。
和田義盛の乱
1213年、侍所別当の和田義盛の乱。和田一族が滅亡するまでには経緯があるが、納得できるものはない。この手の事件発生のリズナブルな理由はない。夫々の人が勝手なことを云っているだけ。「理屈と飯粒はどこにでもつく」
北条義時にとって、和田氏は何時かつぶしたいなと思っている対象でしかない。そして、戦機熟して実行しただけである。
この時に大事なのは、鎌倉時代初めての市街戦があったことである。北条氏は初めて、暗殺・謀殺という汚い手ではなく、堂々と戦った。そうした力を持てるようになったのである。50人のレベルから成長したのである。
北条義時が初めて、姿を表したのであった。そして、侍所別当を兼務して、軍事、政治を掌握したのである。
こうなると、邪魔になるのは、京都べったりの実朝。
実朝の巨船事件
吾妻鏡に変なことが書いてある。実朝が「私は中国にわたりたい、巨船を作れ」と陳和郷に言ったというのである。
しかし不成功。陳和郷は初めから、浮かばないように作ったのであろうが。
実朝は何とかして鎌倉を脱出したいと思っていたのではないか。
百人一首に実朝の歌
世の中は 常にもがもな 渚こぐ 海人の小舟の 綱手悲しも
こんな歌を作る人が、世の中を楽しく生きているとはとても思えない。坂井孝一さんは、実朝が名君であったとしているが、とてもそうは思えない。彼が実際やっている政策は解らないし、記録に出てこない。
実朝暗殺
そういう意味からも、実朝は自分自身の置かれた立場をよく分かっていたかなと思う。危ない存在であることを理解していたのだ。結局、頼家の子公暁に殺される。この暗殺の後ろに誰がいるという説は、色々あるが幕府は詳しく調査していない。公暁が犯人として確定しているので、これ以上詮索するのはやめようとなった。誰かひとりあげるとすれば、義時であろう。更に言うと、鎌倉の御家人たちの総意だったと思う。
朝廷に近付いていく将軍は不要。俺たちは俺たちでやろうという意識であったのだ。これが実朝の暗殺であった。
そして、関東武士団にとって源氏の将軍はもう要らないというのが、実朝暗殺の意味であったのだ。
「コメント」
本郷先生、随分思い切ったことをおっしゃる。まあ何を言っても記録が無いので、正否は解らないから。でも同感する所は多い。
矢張り、NHKドラマへのひそやかな対抗心かな、余りにもひどいという事かな。