220405①「源頼朝の死」
武士の政権が初めて日本列島に誕生した。それが鎌倉幕府。室町幕府、江戸幕府、これもそれぞれが出来た時には歴史が大きく変わる訳であるが、でも武士の政権第一号という事になるし、やはり
鎌倉幕府という事になる。
今NHKの大河ドラマがその鎌倉時代の最初の頃の放映をしているが、割と注目が集まっている様に思う。鎌倉時代はどうやって出来たのかという事を今日は説明する。但しこれは歴史上の定説にはなっていない。私の考えである。
私はこれが全体の見方であるが、スキっとして見方が大事だと思っている。やっぱり数学の法則というのは、美しい姿をしているものこそ良いものであると言われる。こうこういう状況で、こういう条件で、それでこういうことがあるからと、一々言い訳をしなければならないようなものは、これはキチンとして、優れた法則・方式とは認められない。これは全く文系でも同じことが言える。
だから歴史の見方をする時に、非常にスキっとしたものを提案したいと思っている。ですから、
ごく簡単に質問して、それに答えられないような説は、駄目である。一つの実例を挙げる。
ダメな説の例 源頼朝の助命のケ-ス 平頼盛
源頼朝は1159年の平治の乱で捕縛される。父の義朝は知多半島で殺される。それ以前に捕縛された。捕縛された源頼朝は平清盛の前に引き出される。首を討たれることなく伊豆に流される。助命してくれた人というのが、清盛の母の池の禅尼である。彼女はこの子が自分の子に面影が似ているので殺すに忍びなかったのである。今までその様に言われてきた。
ところが新しい説が出てきた。上西門院(義朝とも縁がある高位の女性)に源頼朝は仕えていた。こう言うことを考慮して、上西門院は色々と八方手を尽くして、源頼朝を助けたという新説である。池の禅尼→上西門院
この説に私が何故質問するかというと、源頼朝は伊豆に流された時に、父と池の禅尼ご恩を感じて、いつも仏に祈っていた。この時に上西門院の名は、祈りの中に出てこない。新しい説を唱える人に、何故上西門院の名を唱えないかと質問したい。
源頼朝の恩返し 冷たい人ではない
更に、池の禅尼と源頼朝の間を表す簡単に証拠がある。平頼盛(池の禅尼の実子、清盛の義兄弟) しかし平家の都落ちの際に、同行しない。
この時に源頼朝は平頼盛に使いを出して、恩人の子だから是非鎌倉に来てくれという。そして、鎌倉で大歓迎を受ける。その後京都に帰り、貴族として昇進していく。源頼朝はこうして池の禅尼の恩に報いたのである。この時に上西門院は出てこない。頼盛にありがとうと言う源頼朝を考えた時に、今まで非常に冷たい人間と思われていた訳であるが、でも自分が苦しい時、つまり島流しの時に優しくしてくれた人々の事は、決して悪くはしていない。受けた恩は返すというのが、源頼朝なのである。
上西門院との関係
源頼朝は源平の戦いの後、二回しか上洛していない。
1190年
後白河上皇にあった。本当に恩人と思うなら、何を於いてもその時に上西門院に挨拶に行くべきであろう。行っていない。私は新設が出る前から、上西門院の事は知っている。私もそう思った時もあった。
ト-タルで言うと、上西門院が源頼朝を助けたという事には無理がある。こう言う類の説は実に多い。何か新しい説を出す時には、その考えに対する反論位は自分の中で作っておくべき。これがキチン出来なかったら、自分の説など出すべきではない。それでは単なる売名である。普通の常識で考えて、おかしいという点が余りにも多すぎる。
武士の世の作り方
さて源頼朝が鎌倉に幕府を開いたことを考えると、そこに京都の天皇・上皇・朝廷の力を考えなければならない。政治の先行する大きな権力が朝廷である。この朝廷とどういう関係を持つか、それが武士の権力を誕生させ、安定させる為に、どうしても必要であった。それは例えば、平将門という人が、かって関東で旗揚げを行ったが、あっという間につぶされた。
結局何にも周囲の人の心を掴めなかった。これは朝廷も、それまでの政治であるとか、権威であるとか、そうしたものに
キチンと対抗で着なかったということである。
今ある朝廷、天皇の支配力に,キチンと対抗、反論できる勢力であれば成功する。さもないと、単なる叛逆である。
どうやって武士は、勢力を奪取できるのか。つまり貴族の世の中に、終末をつけ、武士が確固たる地位を築くなはどうしたらいいか。方法は三つ。
●武士自身が貴族として昇進する 足利義満
朝廷の中に地位を占めることによって政治を掌握する。
平清盛 平治の乱後に昇進し太政大臣。しかしこれは成功しなかった。結局後白河法皇との政治的衝突となる。
このやり方を成功させたのが、室町将軍三代の足利義満。貴族として出世して、室町政権となる。やはり清盛のやり方は不完全で、時期尚早。
●源頼朝のやり方 正統性の獲得
彼は清盛の失敗を冷静に観察していた。答えは京都の近くで、新しい武士の政権を作ったら、つぶされる。→距離を置く。当時の日本列島は西高東低。関東という僻地で、源頼朝は自分の権力を立ちあげた。これは、京都の貴族からすると、片田舎で何か騒いでいる奴らがいるという程度の認識であった。当時の鎌倉と京都というと、2週間程度の距離。
源頼朝は京都生まれの京都育ち、朝廷の力も知っており、朝廷に認めて貰えないと正統性は得られないと理解していた。
そこでキ-ワ-ドとなるのが正統性。我々は朝廷に、様々な権限を与えて貰って、認めて貰って初めて正統性を得るのだという事を理解していた。距離は置くけれども、交渉は欠かさないというのが彼のやり方であった。
●政治的にも朝廷と距離を取る
鎌倉で政権作りをやる。けれども朝廷から正統性を得るなんてことはやる必要はない。俺たちは俺たちのやり方でやっていく。これは武力による。武力を基本として、政権作りをしていく。
源頼朝は第一回の上洛。後白河上皇と話し合う。この時に源頼朝はこういう。「私は上皇に忠節を誓います。決して逆らいません。さして、一つ例を挙げる。「私の部下に上総介広常というのがいる。関東一の武士である。幕府創建に力があった。ただ、この者は私が上皇、朝廷と交渉しようと思うと、なんでお前は朝廷朝廷というのだ。我々は我々のやり方でやれば良いという。それでやむなく誅殺することになった。」
此処に源頼朝と上総介広常との明らかな方法論の違いが出てきている。
源頼朝は朝廷から、守護地頭の設置を認めてもらい、征夷大将軍という許可を貰うことによって幕府の存在というものを、公的なものにした。上総介は、そんなまどろっこしいことはやる必要はない。武力で解決するというのである。
これが普通の坂東武者のやり方であった。
ここで関東で生きてきた武士団と、源頼朝との大きな距離を感じざるを得ない。
もうひとつ面白いことがある。それは源頼朝が死んだときの記録が吾妻鏡にないのである。何でないのか。もう一つ、穴がある。上総介が殺されたところの記述もない。
という事は、出来過ぎではないのか。これは何だろう。その内、考え方が纏まるかもしれないが、私にはまだ解決する力はない。源頼朝の死というのは、結局はそういう問題をはらんだものであったという事を証明している。
「コメント」
タイミングよくスタ-トした。大河ドラマが余りにも漫画チックなので、これで口直し。講義の前半はかなり異様。何か大いに気に障ることがあったのだ。源頼朝、上総介の死は、どう話が及んでいくのが楽しみ。義時の描き方も。