201020③「海を渡った古墳時代の倭の人たち その1

今回は5世紀に入っていく。この世紀は、朝鮮半島から最も文物を受け入れた時期である。古墳時代の倭の特徴を対外関係から一言で表すと、朝鮮半島中心に多様な文化を盛んに受け入れた時代である。須恵器、磁器、金属製造、馬の飼育、灌漑、窯、甑、暖房関係・・・・・。倭の技術革新。

これまではこれを渡来人関係で見ていたが、最近は倭の人々が朝鮮半島に渡って、百済・新羅・伽耶・・と交渉して文化を受け入れて来た側から見る研究が盛んになっている。

「倭の任那植民地化への疑問」

今日は古墳、集落を実際に紹介して、朝鮮半島の人々と、どの様に交流してきたかを見てみる。何故このような研究が必要なのか?

・日本考古学において、これまでの(1990,)朝鮮半島との交流史を見直すべき。

 任那は大和朝廷による支配論が一般的、4世紀後半から大和朝廷は大規模出兵によって任那を植民地化して、新羅、百済を属国化していたという歴史観。この根拠は次の二つ。

   ・日本書紀 369年神功皇后の朝鮮出兵 任那の征服の記事

   ・広開土王碑文  400年前後に倭が新羅、百済を属国化し、数度にわたって侵攻したが、高句麗広開土王が撃退したとという碑文

この二つをもって、倭の任那支配論が受け入れられてきた。近年の研究では実態とは違うという結論となっている。

朝鮮半島における倭の人々の生活の痕跡から見て、こういう大規模派兵は無かったのではないかと言われ始めている。

倭は軍事的活動ではなく、文物導入を目指した友好的関係の構築にあった。人々の生活の痕跡から見ていくのが重要である。

 

「倭の祭祀場の存在」

一つの例を挙げる。倭の人々が現地で安全祈願をした祀りの遺跡がある。(ちく)(ばく)(どう)遺跡。中国南朝、百済、伽耶、倭の間で展開された国際交流の祀りの場として使用されたと言われる。それは出土品から推察される。ここが航海困難な場所。

これと似た性格は宗像市の沖ノ島祭祀遺跡である。

この様に倭の人々は朝鮮半島各地で、友好的交流をしてきたとみるのが自然である。

 

「倭系古墳」

朝鮮半島西南部に5世紀に倭の墓を採用した倭系古墳が築造された。臨界性が高く、北九州の前方後円墳形式。倭の朝鮮半島交流を担った倭の人の存在があった。副葬品にも倭の甲冑がある。

 

「コメント」

任那日本府として記憶にあって、日本の植民地として認識していたが、講師はそうではなく平和的な交流目的の倭の人々の定住地と言いたいのかな。これには朝鮮の人々は、早速食いつくだろうな。又、日本の学者はどう考えているのか。興味のある所。