201013②「遺跡・遺物からみた韓と倭のつながり その2」
3世紀後半になると倭王権が成立する。この頃になると朝鮮半島との交流、金官伽耶との交渉が本格化していく。
まずは北部九州が窓口となっていた。これを現すのが西陣町遺跡。(博多市)
「朝鮮半島と北部九州の交流」
・大量の朝鮮半島製の土器が出土→朝鮮半島からの人が定住
・竪穴住居に竈がある。日本列島で竪穴住居に竈が普及するのは、5世紀。朝鮮半島の先進文化である。
・北九州の土器だけではなく、日本各地の土器が出土→日本各地から人が来ていた。
日本各地から人が集まったのは、朝鮮半島からの先進文化を吸収するためであった。
「倭王権の成立、発展」 以上の現象の背景には確立していく倭王権の存在が大きい。
・北部九州を統括する中八幡遺跡から三角縁神獣鏡が出土→倭王権の存在を示す
・近畿系の土器が出土
「朝鮮半島側の変化」
・倭の土器(土師器)が出土→倭人の定住を示す
「鉄器生産の拡大」
当時クヤ韓国が鉄器生産を司り、それが金官伽耶国となっていくとされる。
ここで大きな変化が出てくる。博多の西陣町遺跡の衰退である。これが表すものは、交易主体の変化と交流ル-トの変化である。
・北部九州勢力から、倭政権への移行
・これに伴い、交易ル-トの変更 九州を経由せず、倭王権と直接交易
朝鮮半島→壱岐対馬→北部九州⇒朝鮮半島→沖ノ島(宗像神社)→瀬戸内→近畿
・また金官伽耶でも、近畿の倭王権との交渉が増加→近畿産の土器が出土
「コメント」
倭王権の成立ととともに、朝鮮半島から先進文明を導入する北部九州の重要性が弱まっていったのだ。丁度倭の五王の頃か。