20106①「遺跡・遺物からみた韓と倭のつながり そのⅠ」
古墳時代の日本と朝鮮半島との交流を見ていく。第一回は遺跡遺物から見た韓と倭の繋がりの第一回。私は古墳時代3世紀から6世紀の日本海側と朝鮮半島の交流史を研究して来た。一回目はその前史というか、古墳時代に入る前の弥生時代の後半から4世紀にかけての日本列島と朝鮮半島の交流について話す。その理由は古墳時代の日本列島と朝鮮半島との関係史を考えていくときに、やはり前の段階から見ていく必要がある。何故かと云うと、弥生時代に入って日本列島と朝鮮半島の関係は密接になっていくからである。その延長線に古墳時代の関係があるから。
古墳時代に入る前の弥生時代の中頃になると、日本列島の各地は、青銅・石器などの本格的使用が始まる。それは何処からそういう文化を手に入れたかと云うと、朝鮮半島である。弁韓・馬韓・辰韓という風に朝鮮半島南部には大きく三つの政治体があった。その中で特に交流が深かったのが、弁韓であった。その交流の実態というのを見ていきたい。大きく三つである。これを見ていく。
・弥生時代の後半に海を渡って朝鮮半島において、この青銅器の文化を取り入れた姿が良く分かる遺跡がある。それを紹介していく。
・二番目は、この後古墳時代に入る頃に九州北部と洛東江の下流域(プサン)が連動する形で交易の港が作られる。
・三番目に本格的に倭の中心であった倭王権と伽耶の一つ弁韓から成長した辰韓伽耶という政治体との交流
まず倭と朝鮮半島南部の交渉の開始と展開について話す。古くから青銅の道具とか原料を求めて朝鮮半島南部へ渡っていった弥生の人々の姿という想定があった。これが具体的にわかるようになってきたのがここ30年くらいの発掘調査研究の進展による。その切っ掛けになった遺跡(蔚山市達川)がありそこには鉄製造の炉の跡がある。そして、土器は現地の物ではなくて、弥生の土器である。北九州の人々がここで生活していたことを示している。慶南の勒島(ヌクト)遺跡でも前2~後1世紀中頃と思われる弥生式土器が大量に見つかった。これは倭の人々が鉄を求めてきたことを示している。そして弥生の人々は海岸地方だけではなく、実際に鉄が採れる鉱山まで行っている証拠がある。
今まで三つの遺跡を紹介したが、どういう所にあるかを見ると、朝鮮半島の東南部が中心。西南部にもぽつぽつある。
これらよりル-トは、楽浪郡→西南部→南海岸→対馬、壱岐→北部九州
逆に朝鮮半島南部からも盛んに日本列島に人々が来ていた。その代表的な例が、長崎の壱岐にある原の辻遺跡(はるのつじ)である。弥生時代の環濠集落で、『魏志』倭人伝に記された「一支国(いきこく)」の王都に特定された遺跡である。
ここで朝鮮半島リ土器が出土する。
そして紀元後になると、多角的な交易に変化していく。
・ヌクト遺跡の衰退→直接交易が拡大していく
・北部九州からだけではなく、山陰・瀬戸内などからの往来が増加する。
・原の辻遺跡が盛大となる。→朝鮮半島と壱岐との交流が直接となっていく。
・弁韓・辰韓(新羅の前身)から、北部九州に青銅器が入ってくるようになる。
・楽浪郡からもたらされた文物が、ヌクトではなく金海(キメ、プサンの隣の市)に集中する。
・北部九州ではこれらの交易によって奴国、伊都国が発展していった。
・海老名市 河原口坊中遺跡から、朝鮮半島製の鉄斧が見つかって、朝鮮半島との交流があったこと物語っている。
「まとめ」
弥生時代の後半期には、北部九州、朝鮮半島の南海岸、楽浪に続くネットワ-クが広がっていた。それが紀元後1世紀から、金海地域と北部九州のル-トが整備されていく。北部九州から九州全部、東日本へと広がっていく。
「コメント」
当然、朝鮮半島から文物が入ってきたとは思うが、その具体的な遺跡が考古学の進展で、八景されているのがすごい。その一つが近くの海老名市にあるという。見なければなるまい。