191210⑪「譲位制の成立と展開(1)

世界の王族は、終身在位が原則で、譲位が行われる日本の天皇制は異例である。

日本の天皇の半数以上は譲位を行っている。今日は譲位制の成立を見てみる。

「天皇の最初の譲位」

最初は皇極天皇から軽皇子(孝徳天皇)への譲位(645)。しかしこの譲位はいわゆる自発的譲位とは考えにくい。孝徳天皇は在位9年で死去し、皇極が重祚し斉明天皇。→この解説がもう一つ理解

できなかった。

「鵜野讃良(天武天皇の皇后)の称制と即位」

天武天皇は、今後のことは皇后と草壁皇子に全権委任の詔を出して死去。しかし皇位候補者も多く、鵜野讃良皇后の念願とする草壁皇子への継承には課題が多かった。故に称制として時間稼ぎ。

・天武死後一ヶ月で有力継承候補の大津皇子を謀反として刑死させる。

・他にも有力継承候補者がいた。例 高市皇子

・草壁皇子は病弱で、25歳で若すぎた。

しかし鵜野讃良皇后が天皇即位を念願とする草壁皇子は28歳で、7歳の息子軽皇子(後の文武天皇)を残して死去。

やむなく鵜野讃良皇后は即位して、持統天皇となる。これは孫の軽皇子の天皇継承の為に。

「元明天皇の即位」 草壁皇子の妃、軽皇子(文武天皇の母)  不改常典の出現

持統天皇は、孫の軽皇子の即位を見ずに死去。よってまた繋ぎとして草壁皇子の妃で、軽皇子の母が即位、元明天皇。この時に天智天皇が定めた「不改常典」を引用して、自分の正当性と息子軽皇子の立太子を正当化した。

内容は、皇位の直系皇位継承を定めたものとされる。内容ははっきりせず、自分の即位は「不改常典」によるものと正当化している

「元正天皇」 草壁皇子の皇女。母は元明天皇

文武天皇の息子・首皇子(聖武天皇)へつなぐことが出来た。

 

三人の女帝は、草壁系天皇の継承に繋ぐ役目を果たしたのだ。

 

「コメント」

生前譲位は持統、元明、元正が自分の息子・孫、兄弟に継承させるために始めたという理解で

いいのだろうか。

何ともすさまじい女の、母の執念。これと藤原氏の利害が交錯し、皇位継承は事後も実に複雑怪奇。講師の論は、譲位の最初は皇極→孝徳であるが、これは別の理由からで、実際は持統-元明-元正の三人の女帝から始まるという。

歴史学というのは、古文書、推測から成り立つので、ある意味何でもあり。諸説を素人に言われても混乱するな。