191203⑩「王統迭立と幼帝の誕生~9世紀の古代王権(2)

前回は兄弟相続が行われたことを話した。しかし兄弟相続は基準が曖昧で争いが起きやすい欠点があり、親子相続が安定する。王統迭立が変わるきっかけは、承和の変である。

(承和の変) 広辞苑

謀反の罪で橘逸成らが流罪、皇太子廃立した事変。藤原良房が計画した政治的陰謀。

(藤原良房)

北家。人臣で初めての摂政太政大臣。以降の北家全盛、摂関家の起点を作った。

「承和の変」 兄弟相続の争いと、藤原氏内部の抗争が原因。

高校の教科書では、原因は藤原氏の他氏排斥として書かれているが、事実は以下である。

・これまで、皇太子の即位と共に、取り巻きが栄進する。仁明天皇の時に皇太子は恒貞親王(叔父

 淳和天皇の皇子)仁明天皇の信認を得ていた藤原良房は、現皇太子を廃し、仁明天皇の子で良房の妹が生んだ道康親王の立太子を図った。後の文徳天皇。

・不比等の四嗣子(武智麻呂-南家、房前-北家、宇相-式家、麻呂-京家)の内、桓武以来式家が

  全盛。

  ここで北家の藤原良房が式家追い落としを画策した。

「承和の変後の天皇制」

・桓武天皇以降の王統の兄弟迭立を解消し、嫡系王統を成立させていく。

・藤原北家の全盛となり、以降摂関政治がスタ-トする。

・この為に、これまでなかった幼帝即位が不可避となっていく。幼帝でも可能な摂関家による

 政治体制が確立。

 文徳天皇   23歳 仁明天皇の皇子 

 清和天皇  9歳 文徳天皇の皇子

 陽成天皇  8歳 清和天皇の皇子

 醍醐天皇  13歳 宇多天皇の皇子

 朱雀天皇   8歳 醍醐天皇の皇子

 

奈良時代の草壁系天皇の体制が、光仁天皇の時で崩れ王統迭立となったが、承和の変後また

嫡系王統になっていく。

 

「コメント」

講師は教科書の説明が違うということを細かく例証したが、少し素人には聞き辛い。くどすぎるのでかなり纏めた。果たして正しいのか自信がないが、自分なりには納得。