191126⑨「王統迭立と幼帝の誕生~9世紀の古代王権(1)」
前回は称徳女帝死去で、草壁系王統の断絶を話した。高校の教科書では、天武系から天智系へ
変わったと説明されている。しかしそういう説明でいいのか。
「光仁天皇」 天智天皇の七男・志貴皇子の皇子白壁王。
相次ぐ継承者争いの難を逃れる為に、酒乱を装ったとされる。しかし継承者を決めないままに称徳女帝は死去したので、群臣会議の結果、はからずも白壁王 光仁天皇が実現。皇后の井上内(いのへ)親王に他戸(おさべ)内親王が誕生し、皇太子となる。しかし天皇呪詛の罪で井上内親王と
他戸皇太子は廃され、死去。井上皇后は聖武の娘なので、これで天武草壁系は断絶。
講師説は、あくまで草壁系他戸親王を繋ぐよう図ったが、政争によって実現しなかったとする。
「桓武天皇」 光仁天皇の長男、山部親王。母の身分が低かったので、立太子は予想されていなかったが、井上内親王・他戸親王の刑死により、皇太子となる。即位後も出自の故に、意識過剰となり様々な正当化の事業を行う。早良親王を皇太子(同母弟)としたが、えん罪で廃位し、死去。息子安殿(あて)内親王を皇太子とする。→平城天皇
「平城天皇」 桓武の第一皇子 安殿(あて)親王 病で嵯峨天皇に譲位
譲位後、藤原薬子にそそのかされて薬子の変となり、落飾。
「嵯峨天皇」 桓武の皇子 三筆の一人 空海のパトロン
「淳和天皇」 桓武の第三皇子
後継者を決めないで死去した称徳女帝以降、藤原一族の政争に翻弄された継承問題は、桓武天皇で落ち着いた。ここから兄弟継承となり、更にはその子たちへの配慮から二つの王統への継承と
なっていく。両党迭立である。
「コメント」
聖武天皇以降、皇位継承は藤原氏の政争に、皇族の利害が錯綜して、複雑怪奇。
いちいち記すのも煩雑。ただ幼帝を擁立することはなく、皇位を実行できる成人天皇となっていく。
それにしても光仁天皇は気の毒、藤原氏の都合で皇后と息子を殺され、異腹の子が桓武天皇。
あなた任せ。