191112⑦「草壁系王統と「不改常典」~8世紀の古代王権(1)」
「草壁皇子」
天武天皇と皇后鵜野讃良(うののささら)皇女-天智天皇の皇女の息子。妃は持統天皇の異母妹の阿倍皇女(元明天皇)。元正天皇、吉備内親王(長屋王の妃)、氷高皇女(:元正天皇)<文武天皇の父。
持統天皇は、皇位継承者として考えていたが、28歳で死去。
「不改常典」
707年以降江戸時代まで天皇位継承に参照されたもので、天智天皇が定めたとされる。「改めるまじき常の典と定め・・・」から、不改常典といわれる。内容は直系皇位継承法とされる。
「持統天皇以降の皇位継承」
天武の皇后は息子の草壁皇子に皇位継承の想いが強かったが、草壁が早逝したのでやむなく、自ら持統天皇として即位。しかし草壁の遺児・軽皇子が幼少なのでそれまでの繋ぎに色々と苦労する。
・草壁皇子に次いで皇位継承者は、大津皇子(母は皇后鵜野讃良の姉 太田皇女)。文武に優れ衆望
も厚かった。持統はこれを、天武の死後すぐに刑死させた。競争相手の減少を狙って。
・持統天皇の次の皇位候補者には、天武天皇の異母兄弟が多数いた。
・高市皇子は天武天皇の息子で、母は低い身分なので、大津皇子に次いで三番目。しかし太政大臣在位で死去。
・高市皇子死去後、次期天皇についての群臣会議が開かれた。この時、壬申の乱で敗死した大友皇子の遺児葛野王(かどの)が発言。「皇位は親子相続が正しい。」事実上草壁皇子の遺児軽皇子を
皇太子に推した。この事は、日本書紀には書かれておらず、「懐風藻」に見える。
・これで以後の嫡系の皇位継承ル-ルが定まったと言える。→草壁系天皇
「持統天皇から文武天皇へ」
697年(持統11年)15歳の文武天皇への譲位がなされた。しかし25歳で死去、遺児首皇子(聖武天皇)。
「文武から元明・元正そして聖武へ」
持統天皇の悲願である草壁系の維持のために、文武の早逝から聖武天皇まで元明天皇(草壁の皇后、文武の母)、元正天皇(氷高皇女、母は元明天皇)が、繋ぐことになる。子から親への継承は初めてである。
「元明天皇即位の理屈付け」 子から母親への皇位継承
子から親への継承、また元明は草壁皇子の妃で、皇后ではなかった。これは異例な事なので、次のように弁明した。
・天智天皇の「不改常典」は、維持されるべきこと。それを維持し、文武天皇の遺児・首皇子(聖武天皇)への:継承をやるために、即位した。
・文武は体調不良で、母への譲位を望んだ。
・「不改常典」は記録にないので、存在の事実は不明である。しかし天皇がそうだというので、そうなのだとなった。
この後、歴代天皇即位の時には、このことが持ち出されることになる。
「元正天皇即位の理屈付け」 母から娘への継承
これは聖武天皇(首皇子-文武の遺児、持統の曾孫、元明の孫)が即位した時の宣命によると。
・お前の父(文武)から本来賜るべきであるが、当時若かったので、母と姉がこの間を繋いだのだ。
・宣命で元明・元正即位の妥当性を述べている。
「この間の問題点」
元明天皇は天皇の皇后ではなく、皇太子であった草壁皇子の妃であったことである。
「長屋王」
高市皇子の子、天武天皇の孫、母は天智天皇の娘、元正天皇の姉。皇族勢力として、藤原一族と
対抗。
「長屋王の変」 通説 これまでの通説は間違いであると講師は言う。
通説は以下の原因から、謀反の疑いで一族全て自殺させられることになる。
・長屋王は、聖武天皇の母の名称・皇太子に1歳の息子・基王を立てることなどについて異論を持つ。
・血筋から長屋王と妃・吉備内親王の子女に皇位継承権があることが認識されていた。→藤原一族との利害対立。
・これらの事から藤原不比等以来、天皇の外戚としてきた藤原一族と敵対関係になる。
「コメント」
持統天皇の母としての息子愛、孫愛には、女の執念を感じて少し鼻白む思い。その為に、息子の嫁、孫娘にも苦労させるのだから。それを利用した藤原不比等以下の藤原一族もすごい。長屋王の変は通説と違うといわれて、興味はあるが、私の頭を混乱させない程度に願いたい。