191022④「世襲王権の成立と合議制~6世紀の古代王権(2)」
前回は大王の世襲制が6世紀に成立したことを話した。この時代は王位継承の在り方が変わったことだけではなく、色々な事件が起きている。次の武蔵の豪族の乱は代表的なものである。
「武蔵国造の乱」 地方分権から中央集権への移行
6世紀の安閑天皇の時に起きた騒動。武蔵国造の笠原氏の内紛に、大王家が介入し勢力を広げたとされる例。同じケ-スが筑紫の磐井の乱である。ここから大王家は、地方豪族への支配を強め、各地に直轄地「屯倉」を置くようになる。
それまで、地方豪族は中央から独立していたが、大王に支配されるようになる。
「敏達天皇後の皇位争い」 穴穂部皇子
穴穂部皇子は30代敏達天皇崩御の後、皇位を狙う。曽我馬子の推す義兄 大兄皇子(31代用明天皇)が即位したので、物部守屋と結ぶ。
次に同母兄 用明天皇崩御で再度皇位を狙うが、馬子により推挙された崇峻天皇(32代)が即位。またもや皇位継承に失敗した穴穂部皇子は守屋と共に滅ぼされた。
「崇峻天皇 暗殺」
馬子に推挙された崇峻天皇(32代)は、政治の実権を持つ曽我馬子に反感を持つが、それに気づいた馬子に暗殺される。唯一の天皇暗殺である。いわゆる「崇峻弑逆」
しかしこれは、単に曽我馬子の独走ではなく、宮廷の皇族・群臣の同意を得たク-デタ-と理解されている。
従来、蘇我と物部の争いは崇仏・排仏論争と解されてきたが、実態は夫々の皇位継承者を抱えての政権争奪の争いであるとの見方である。
蘇我 敏達の皇后 額田部皇女(後の推古天皇)
物部 穴穂部皇子
「コメント」
天皇が長子相続なのか、父子相続なのか。後世もそうであるが、この時も実に分かりにくい。
要するに時の権力者に都合のいい天皇が即位していくのであろう。そして都合が悪くなると、弑逆される。(崇峻天皇)
天皇と政権実力者との綱引き。しかし6世紀以降は、同じ王朝内の(同一血統)の皇位争いとなっていく。