190820⑧ナポレオン誕生250年『「近代的国民国家」への志向とその困難」
このテーマについて、二つの部分に分けて話す。一つは、テルミド-ル派による、1895年~96年に
かけての、革命落着への動き。後半は95年憲法と新た政府、これを総裁政府と呼ぶ体制について。
「テルミド-ル派の革命落着への動き」
共和暦11月をテルミド-ルという。この月に山岳派独裁の革命政府を指導していたロベスピエ-ル
一派が、ク-デタ-で打倒され、恐怖政治が終了。これを主導した人々を、テルミド-ル派という。
反革命ではなく、穏健派・中間派である。
・基本的立場は、1789年以来革命派の人々が取ってきた、立憲主義・権利平等・国民参加は不変で ある。
・社会主義的憲法であった93年憲法を改定し、私的所有権・経済活動の自由・市場原理・・・などを
認めるべきとした。
・ロベスピエ-ル派の活動の主体で、恐怖政治の母体の公安委員会・革命委員会の権限縮小。
・革命の大きな役割を果たしたジャコバンクラブの閉鎖。
しかしこの結果、白色テロ(反革命王党派による)、急進革命勢力のテロが起きる。又、食糧難によるパリ民衆の蜂起行動も発生。しかし、政府により、鎮圧され、革命主体であった都市市民勢力が
消えていった。
・テルミド-ル派とは、中間派と右派が主体となって、近代的国家建設を目指した人々。
「第二局面 95年憲法制定と共に、総裁政府の設立」
テルミド-ル派による穏健な95年憲法制定と共に、「総裁政府」が出来る。5人の総裁による集団
指導制。二院制の議会。下院-500人の議員による議論の場 上院-下院決定事項の承認
・しかし、内憂外患の状況は改善されず、更に王党派による反革命の動きが顕在化。総裁の一人
バラスがナポレオンを起用して、これを鎮圧。ツ-ロン港の英国艦隊追放の戦いに次いで、
ナポレオンの活躍。
〇国内の反革命の鎮圧、周辺諸国の介入排除で、結局軍事勢力の台頭を許容せざるを得なくなる。
〇革命の主義主張ではなく、混乱を利用して、のし上がっていく勢力が出てくる。
「ク-デタ-による総裁政府の解体」ブリュ-メル・ク-デタ-
1799年 、ナポレオンが総裁政府を倒した軍事ク-デタ-。
ここでフランス革命は終了したといわれる。彼は言った。「革命は、諸原則の上に達成された。→終わった。」
「コメント」
革命は、最初に極端な主義主張、次に恐怖政治と暴力をもたらす。独裁政治を経て、民主国家へは長い時間を要する。日本に革命が起きなくてよかった。ここからナポレオンという興味深い人物の登場である。