190806⑥ナポレオン誕生250年『立憲王政から共和制へ:革命VS反革命』」
テ-マについて、三つの段階に分けて話す。
(第一部) 憲法制定・立憲王政
・フィヤン派
1791年憲法制定議会で立憲王政とする憲法制定。これは納税額による制限選挙であった。
このリ-ダ-シップを握ったのは、フィヨン派。自由主義貴族とブルジョアジ-を代表したが、急進的
なジロンド派に圧倒される。
これで革命が決着していれば、英国型の立憲君主制で落ち着いた。しかし国王一家の国外脱出
騒動などで、国王への信頼が全く失われた。
・立憲君主制擁護派と、共和制派との争い。及び周辺国からの反革命への軍事介入の動き。
(第二部) 革命に介入する周辺諸国との対外戦争 王権停止 国王一族の幽閉
・ジロンド派の台頭
混乱する内政を収集するとして、フィヤン派に変わってジロンド派。自由主義、共和制を掲げ大商人
や都市ブルジョアジ-を代表し、フィヤン派よりは左翼。国内的には比較的穏健であったが、国内
混乱収束の為に介入をする周辺諸国との対外戦争を始めた。貴族中心の軍隊の協力が
得られず、戦況は劣勢。国内の改革は激化し、革命的共和制へと進む。
民衆の武装蜂起、宮殿の占領、王権の停止、国王一家の幽閉へと進む。ジロンド派はこの混乱を
コントロ-ル出来なかった。
(第三部) 国民公会・国王の処刑 周辺諸国の対仏同盟 革命裁判所による反革命分子の排除
1792年宮殿占領で王権は停止され、新議会は「国民公会」という名で、狂信的なロベスピエ-ルに
より設立された。
共和国宣言により、第一共和政が発足。幽閉中に反革命活動を行っていたとして、国王一族は処刑
される。
・対仏大同盟
ルイ16世の処刑は、周辺諸国に王政否定の危機感を持たせ、波及を恐れた諸王国は、同盟を
組んでフランスの革命政権打倒を目指した。
・革命裁判所
反革命を摘発するための法廷。ジロンド派を追放して議会の主導権穂握ったジャコバン派
(山岳派)は、反対派を弾圧。
反革命の貴族、聖職者、ジロンド派などを弁護なしでギロチンにかけた。その数、4万人とも。
ロベスピエ-ル主導の恐怖政治といわれる。ここで従来貴族中心の軍隊を駆使できる人材が
求められた。
ここで頭角を現すのが、若い陸軍将校であったナポレオンであった。
「コメント」
ここでやっとナポレオンの姿が見えた。やはり大混乱期に鬼才が生まれるのだ。それにしても
恐怖政治は、歴史上随所に見られる。ヒトラ-、ムッソリ-ニ、スタ-リン、東条、北朝鮮、
各地の独裁政権・・・。