歴史再発見「元号文化の歩み」 京都産業大学名誉教授 所 功 名古屋大学文学部史学科卒
181211⑪「大正と昭和の改元」
明治時代の近代化で一番大事なことは、国家のあり方を憲法とか法律の下に形作るということで
あった。然し法を作るのは簡単な事ではない。単に海外の先進国のものを移入すればいいのではなく、日本古来の在り方を考慮し、海外の在り方を研究し、将来の日本に相応しいものでなくては
ならない。
(大日本帝国憲法の成立) 皇室典範
明治23年(1890年)に施行され、昭和22年(1947年)まで存続。同時に皇室典範も制定された。
今後の日本に必要なのは、国家であり同時に皇室であるとした。多数決で決める憲法は必要ならば改正しても良いが、皇室の在り方は古来、連綿と続いてきたもので簡単に変えてはならないとして、独立した法典とした。ここで元号の事が規定された。
(登極令) 明治42年(1909年)
皇室典範に於いて、天皇の践祚、即位礼その他に関して細かく規定された皇室令である。
概要
・践祚後は直ちに元号を改める
・元号は枢密顧問官に諮問し、天皇が決定し、詔書で交付する
・即位礼・大嘗祭の在り方も規定
・その他
この登極令は明治天皇の崩御、践祚そして改元に適用される。
「践祚」とは
天皇の位を受け継ぐこと。先帝の崩御または譲位によって行われる。古く、践祚と即位の
区別はなく、桓武天皇以後、践祚の後、日を隔てて即位式が行われるようになった。
(明治→大正への改元) 明治天皇 明治45年7月30日崩御 登極令の初めての適用
・崩御に備えて元号準備は秘かに進んでいた。
・崩御後直ちに践祚・改元となる。この為に時間が必要なので、崩御日はずらしてある。
・首相西園寺公望がまとめ役となり、大正と決定。
出典 易経 「大いに享を正すは天の道なり」
・森鴎外から異論 漢籍に素養があり、軍医総監・帝国博物館館長・宮内庁図書寮長官など歴任
中国の周辺国で既に使われており、良い治世ではなかったので宜しくない。
元号の「明治」と「大正」に否定的であった為、自ら元号の研究を開始。「元号考」を刊行しようと
したが未完で死去。
助手であった吉田増蔵(漢学者、奈良女子高等師範教授)が完成させた。
彼は後に「昭和」の元号の提案者と言われる。又太平洋戦争「開戦の詔勅」の原案者でもある。
(大正→昭和への改元) 大正天皇 大正15年12月25日崩御
・大正天皇は在位中から体調不良で、大正10年から皇太子(後の昭和天皇)が摂政として国事を
担当していた。
・崩御後直ちに予め検討されていた元号案が提出された。その中で森鴎外のアシスタントであった
吉田増蔵の案が採用され、昭和となる。
・大正天皇崩御後、ただちに践祚、改元が行われた。大正15年12月25日 昭和元年
・出典 書経(四書五経の一つ) (百姓昭明にして、萬邦を協和す)
・但しこの時の問題点
昭和天皇即位で昭和は12月25日(大正天皇崩御日)からとしたが、その時刻はとの疑問が
発生し、その解決は平成改元まで持ちこされた。
(昭和→平成への改元) 昭和天皇崩御 昭和64年1月7日
・崩御当日に新年号「平成」は決められたが、平成元年は崩御翌日1月8日(午前0時)からと
された。これでの年号のタプリは解消された。 年号の境目問題
・出典 史記「内平らかに外成る」→国の内外共平和が達成される
「まとめ」
〇この例に従い、平成31年は4月30日に譲位されると5月1日午前0時より新年号となる
〇大正昭和平成の改元は、旧皇室典範と登極令及び元号法に基づいてスム-ズに行われた。
〇終戦後廃止された「皇室典範」の元号部分は、昭和54年(1979年)制定の「元号法に従う。
「コメント」
文学者としては著名ではあるが、陸軍の脚気解決にはヘボであった森鴎外が、元号について深く研究し其の後の改元に影響を及ぼしたことは寡聞にして知らず。