歴史再発見「元号文化の歩み」 京都府立丹後郷土資料館学芸員…吉野健一
181120⑧「室町時代から江戸時代の年号」
応仁の乱以降と、信長・秀吉・家康がどのように改元に関わったかを話す。
「応仁の乱から戦国時代」
有名な応仁の乱は応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)。足利将軍家足利義政及び管領 畠山・斯波両家の相続問題を切っ掛けとして、東軍細川勝元と西軍山名宗全とがそれぞれ諸大名を引き入れて京都を中心に争った大乱。
戦乱は10年続き、これから戦国時代となり、信長の時代まで続く。
先ず1467年前年の戦乱を理由に応仁と改元される。
朝廷の儀式・政務・公事などの各種行事の最高責任者、改元の責任者である。これを足利義政が行った。異例なことであった。朝廷の続く戦乱の為財政は窮迫し、武士の助力なしで改元もままならない状況となる。また京都が焦土と化したので、朝廷・公家の記録が残されていない。詳細は不明な所が多い。
・大永→享禄への改元 後奈良天皇は即位式も出来なかった。
財政逼迫・公家の地方への疎開で朝廷機能の喪失。
・室町幕府最後の将軍15代足利義昭が改元すべしと朝廷に意見具申したが、実施出来なかった。
「織田信長の時代」
信長は足利義昭を追放し天下人となる。信長の支援の下に天正改元(1573年)が行われる。
この天正は信長を象徴し20年間続く。
「豊臣秀吉の時代」
関白就任(天正13年 1585年)。翌年関白を甥の秀次に譲り、太閤太政大臣となり武士・公家のトップとなる。
・天正から文禄への改元
信長を象徴する天正から、秀吉時代となり文禄へ改元。秀次の関白就任に拠るとの説もあるが、
後陽成天皇の即位改元が遅れてなされたとも。(6年間即位改元が無かった)
・文禄から慶長へ改元
秀次切腹の翌年に豊臣政権2度目の改元。文禄5年(1596年)、伏見城倒壊の大地震を切っ掛けに
改元。慶長は秀吉時代を象徴する年号である。
「徳川家康の時代」
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで徳川勝利し、家康は征夷代将軍となり慶長8年(1603年)江戸幕府を開く。
ここで本来改元が行われる所であるが、豊臣秀頼が大阪城に存在し豊臣勢力も残存していたので
改元を見合わせる。
慶長20年(1615年)大阪城落城し豊臣氏滅亡。この年に元和と改元。
家康は事前にブレ-ンの金地院崇殿に命じて改元案を準備していた。
・慶長から元和に改元
崇殿の作成した「禁中並びに公家諸法度」によって、改元が行われた。その中で改元は「当分改元は中国の年号の中から選ぶべし。公家が習熟したら、日本古来の年後にしても良い。」とある。
・元和とは唐の時代に使われた年号。家康の案と言われる。しかし以後は出典は中国の古典からの引用であるが、日本独自のものとなって行く。
信長・秀吉・家康と武家の時代となり、改元の主導権は次第に幕府側主導となって行く。
「コメント」
三天下人と年号の関係は、今まで考えてもいなかったので耳新しい。
信長 天正、秀吉 文禄・慶長、家康 元和とはっきり分かれているのは実に面白い。
以後朝廷・公家は明治維新まで全ての面で主体性を発揮できなかったことの一つの事象である。