歴史再発見「元号文化の歩み」              京都府立丹後郷土資料館学芸員…吉野健一

181113⑦「鎌倉時代の年号」

中世から近世にかけての(時代区分 鎌倉時代・室町時代から江戸時代)元号の在り方、その様子について三回にわたって話す。

「鎌倉時代」    源頼朝が鎌倉に幕府を開いて(1185年 文治元年)から、北条高時の滅亡

1333年元弘3年)までの150年間。

この時代は歴史上最も頻繁に改元が行われた時代である。150/48年号→平均3/元号となる。

明治 45年、大正 15年、昭和64年、平成 30年と最近は長い。この時代の公家も「改元は

年中行事の如し」と。

改元の理由は前にも述べたように次の如くである。

・即位改元

・瑞祥改元  

・災異改元  災害が起きるとその影響を少なくするために改元する

・革命改元辛酉(しんゆう)甲子(かっし))  辛酉・甲子の年は変事が起きると言われ、それを未然防ぐために改元

                 する

(けん)(ぼう)改元(1214年 順徳天皇)院政の時代  将軍は源 実朝

 改元の理由は天変地異とされているが、この時に後鳥羽上皇の寵臣二人が相次いで死亡したので

 改元。藤原定家の明月記に、この事情が記されている。

〇嘉禎改元(1235年 四条天皇)

 摂政 九条 (きょう)(ざね)が現職のまま死亡したので改元

 (改元が多くなった理由)

・改元の呪術性が信じられていたので、吉兆凶事ことあるごとに改元を行った。 

・鎌倉幕府は改元に拘わらなかったので、朝廷の恣意的な改元が可能であった。

(改元の儀式) 改元定め 

これは平安時代にほぼ完成し、それが踏襲されていた。

天皇の命により菅原・大江・藤原等の文章道の人々が、漢籍から年号を選び(改元(なん)(ちん)という)、

公卿の活発な議論を経て天皇に答申される。

「南北朝時代」   

 南北朝時代とは、鎌倉幕府滅亡後後醍醐天皇が吉野に入る(1336年 延元1年・建武3年)から

 後亀山天皇が京都に帰る(1992年 元中9年、明徳3年)までの57年間。

 南朝(大覚寺統)、北朝(持明院統)の抗争の時代。

 

 南朝・北朝それぞれの年号があって自分達が定めた年号を使わせることで、自分たちの正統性を

 主張した。

 

 「コメント」

鎌倉時代の平均3/元号では、実際生活上は煩雑を極めるであろうと考えているのは、現代の我々

が感じることで当時の殆どの人々は年号と無関係な生活であった。天皇を始め朝廷の人々、政権側

の関係者のみの事であったのだろう。こうなると明治維新の一世一元とは大英断であったのだ。