歴史再発見「元号文化の歩み」               京都産業大学准教授…久禮旦雄

181106⑥「平安時代の年号」

平安時代とは桓武天皇の平安遷都(794年)から鎌倉幕府の成立までの訳400年をいう。

781年に桓武天皇が即位、782年に年号は天応から延暦に改元された。平安時代に入ると改元は天皇の交代時において年内は旧年号を用い、年が明けてから改元するという中国に倣った方式が

取り入れられている。今回は平安時代の年号がいかなる理由によって変更され、どのような手続きを経て決められていったのかを、藤原摂関政治との関わりをみながら話す。

「延暦」      桓武天皇 宝亀→天応→延暦

桓武天皇は光仁天皇の長男として生まれたが、生母の出自が低かったので立太子は予想されていなかった。

政争により光仁の皇后井上内親王・異母弟(おさ)()皇太子が廃されたので、皇太子とされた。天応元年(781年)に譲位されて天皇となる。

長岡京に都するが、和気清麻呂等の進言で平安京へ遷都する。(794年)

譲位される年に伊勢に瑞雲が現れたとして、天応と改元された。然し桓武は即位後改元を行う。延暦である。この年は十干十二支の辛酉の年で、古来大変動があるとされた。これを避けるための改元であった。

第一王子 ()殿()親王(平城(へいぜい)天皇)とする。

桓武天皇は延暦25年(806年)70才で崩御。

「大同」      平城天皇

 

()殿()親王(平城天皇)が即位し、その年に大同と改元。先代天皇が崩御したら、その翌年に改元する慣例であったがそれが崩された。何故なら年内に改元すると一年に二人天皇がいることになるからである。日本後記ではこれは誤りであるとしている。

平城天皇は弟(嵯峨天皇)に譲位し太上天皇となる。そして主導権を握ろうと平城京への再遷都を

意図したが、敗れて出家する。薬子の乱である。

「弘仁」

嵯峨天皇は大同4年(809年)に即位するが、太上天皇(兄平城天皇)に遠慮して暫く改元を行わなかった。平城太上天皇との争い(薬子の乱)の終結後、弘仁と改元。

「天長」

淳和天皇(嵯峨天皇の異母弟)

「平安時代の年号」

延暦(782年)~建久(1198年) 合計92の年号がある。

「摂関政治と改元」

この時代、藤原氏の摂関政治の力は強大になり、天皇にも大きく影響し、改元にも介入するようになる。従来は即位・祥瑞であったが、平安時代には改元は、次の四つの場合となる。

よって改元の大幅増加。

   ・即位  君主の交代

   ・祥瑞  吉事に際して   金の採掘・・・・

   ・災異  凶事に際してその影響を断ち切るために

   ・革年  次は区切りの年として 

甲子(きのえね、かっし)・戌辰(つちのえたつ、ぼしん)・辛酉(かのととり、しんゆう)

続く藤原氏の政争の浄化、癒しを目的としてこの改元方式は恒例となって行く。

 ・延喜(辛酉、901年)醍醐天皇 革年改元の最初

    前年に藤原時平の藤原道真追放の政変が起き、異変が予想されたので。

(こう)(ほう)(甲子、きのえね)村上天皇

「年号の決定方式」

・天皇の改元命令

・大臣が文章博士、式部に年号案を作成させる

文人貴族の菅原氏・大江氏が主担当となる。彼らは漢籍から年号案を作る。

   史記(二十四史の一つ、黄帝から前漢の武帝までの紀伝体の史書) 

   漢書(二十四史の一つ、前漢の歴史書)

   後漢書(二十四史の一つ、後漢の歴史書゜)

   五経(儒教で尊重される五種の経典。易、書、詩、礼、春秋)

・朝廷で諮問案に基づいて、天皇に提出

・天皇が決定

 しかし平安時代後期になると摂関政治が恒例化して、幼帝が誕生し外戚の摂関の影響力が強まる。

事実上、藤原氏が決定権を握ることになる。

このような貴族の介入は、後の武家政権でも同じことが起きてくる。

 明治以前の年号の在り方は、概ねこの時期に決定したと言える。これは年号に限った事ではなく、日本の基本的な仕組みが決まり、それが変化していくのである。

 

 「コメント」

実際の政治は律令制の崩壊、政争、天変地異で混乱し、ただ改元によって気分を変えようとしていたとしか見えない。

平安時代は貴族間の政争の歴史であり、怨霊が闊歩する。

そして社会体制が貴族から武士へと移っていくのである。