歴史再発見「元号文化の歩み」               京都産業大学准教授…久禮旦雄 

181023④「日本年号の成立」 

日本では昭和54年に公布・施行された元号法で「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と

された。古代より改元は皇位継承時に行われた「即位改元」、珍しい動物が現れるなど吉兆現象に

行われた「祥瑞(しょうずい)改元」があった。今回は年号がどのように始まり展開していったのか、

当時の唐や新羅との関係も交え大化(645年)から大宝(701年)までの歩みを話す。

・年号の法的根拠

・明治憲法  年号の規定有り

現代の日本人は、天皇即位と共に年号が改められることを当然としている。しかし単なる慣習で行われているのではなく、法的根拠の下になされている。

・戦後の憲法  年号の規定なし

戦前の帝国憲法では「皇位継承があった場合、年号を変える」ことを皇室典範で規定していた。

しかし戦後占領下において、皇室典範は大幅に変更され、元号についての規定は削除された。その結果、年号の法的根拠は失われた。

・戦後「元号法」の復活

昭和53年(大平内閣)に、元号法が復活した。その際に国会参考人として出席した坂本太郎東大教授は、古代史専門家の立場で、次の様に元号使用の必要性と法的根拠を主張した。

・元号が長きにわたり東アジアで用いられ、現在は日本のみ行われている。世界的文化遺産である。

・皇位継承の際に改元が行われることで、天皇と国民との関係をより深める。

・元号の存在は日本の独立の象徴である。

・天平文化・大正デモクラシ-・慶長小判など時代を把握するのに便利である。

更に、元号と西暦は併用すべきとした。

・日本の年号の歴史

日本最初の年号は大化(大化の改新 645年)であり、継続的に使用されたのは大宝(701年)からである。大宝律令には、今後元号を使用すべしとしてある。

その間は、白雉(孝徳天皇)・朱鳥(天武天皇)など断続的にあった。

大化から大宝まで年号が断続的に制定されたのは何故か。これには朝鮮半島の事情が参考になる。当時の超大国「唐」との関係によるものではないかと推察される。朝鮮半島の新羅の情況を見てみる。

・唐と新羅との年号に関する関係

新羅は667年唐と組んで、百済・高句麗を滅ぼし朝鮮半島を統一した。しかし唐の支援を受けての事であったので、様々な問題を抱えていた。その一つが、年号問題である。統一以前から新羅は

独自の年号を使用していた。

しかし唐の太宗(李世民)から、「独自の年号を使用するのは何事」と咎められ次のように回答する。

「唐の年号を使用せよと命じられれば、独自の年号を使用するつもりはない」と。以後唐の年号を使うこととなり近代まで独自年号を使うことは無かった。

・日本と唐の関係 

当時の日本は白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に大敗し、唐の日本侵攻を憂慮していた

時期なので、唐の反応を恐れ、独自年号を使うのに躊躇したのである。

・大宝律令での年号の扱い

天武天皇の浄御原令が先駆けとなり、701年(文武天皇)の時に、律と令を兼ね備えた大宝律令が完成した。ここに今後公文書には年号を使うことが定められた。唐の出方を十分に考慮した結果で

ある。

 「コメント」

年号の重大さが理解できた。日本人であれば、西暦と日本独自の年号の重要さを考え、併用に心がけるべきである。