歴史再発見「日記が明かす平安貴族の実像」 国際日本文化センタ-教授倉本林 一宏
180410②「藤原道長「御堂関白日記はなぜのこったか」
(藤原道長の概況)
平安中期の貴族。御堂関白、法成寺入道と称される。藤原氏全盛時代の宇治の長者。
・藤原兼家の五男。兄達がいたが疫病で死去。この為累進した。内覧という要職に就き権力を握っていく。これは太政官から天皇に上がる決裁文を内覧し、公家の会議の議長ということ。関白となると
一方の業務が無くなるので、敢えて関白にはならなかった。よって「御堂関白日記」というのは誤り。
とても業務多端な要職であったが道長は苦にしなかった。
・長女 彰子
道長の長女。11才で入内し、一条天皇の皇后となる。彰子の長男(敦成親王)が、後の後一条天皇と
なる。当初彰子に男児が中々出来なかったので、当初道長は同じく入内していた道長の兄・道隆の娘定子の息子(敦康親王)を彰子の養子として自分の家系を維持しようとした。定子・彰子の後宮内の争いは紫式部・清少納言の存在と共に有名である。
・法成寺
後年摂政を息子頼道に譲り、出家。広大な七堂伽藍の法成寺を創建した。御堂とは法成寺
無量寿院の事。阿弥陀を信仰し九品仏を作り、死に際しては、九体の阿弥陀仏からの五色の紐
(計45本)を、握りしめ往生したと伝えられる。
(御堂関白日記はどういう風に残ったのか)
・実質本で現在残っているのは陽明文庫に14巻(7年分)。
陽明文庫に収蔵されるまでは、宇治平等院の奥深くに保管されていたとされる。
(陽明文庫)
平安時代から明治時代に至る藤原家・近衛家の古文書や古典類を収蔵する文庫。京都市右京区。
陽明とは近衛家の別称。屋敷が宮廷の陽明門近くにあったから。陽明門は近衛門ともいう。
・平安時代末期に摂関家の文書類の目録が出来た。その中には「御堂関白記」は36巻とされていた。
・藤原家の嫡流近衛家は、まず近衛家から九条家が分かれる。その時に2分割したのであろう。
そして更に近衛家より鷹司家が分家した時に4巻が分割され、14巻が近衛家に残ったと推察
される。 近衛家以外の分は戦乱や火災で失われてしまう。
・近衛・鷹司・九条・一条・二条を五摂家という。
・近衛家分だけ残ったのは、何事かの時まず「御堂関白記」を避難させるというのが近衛家の家訓で
あった故。残ったというより、近衛家が残したのである。
(藤原道長は日記をどう位置づけしたのか) 実質本・古写本・写本より推定
・残存日記6949日分の内、道長が何か書いているのは3835日。約2日に一回である。書いてない
日が半分。
・子孫の為に書いたと推測される。・誤字脱字、不揃いが目立ち悪筆。要するに単なるメモとしたので
あろう。
(書き方の特徴)
・毎日書いていない。纏め書きと思われる部分も多い。
・この時代の日記はメモの貼り付けがあったりするが、御堂関白記にはない。自分の記憶だけを
元にして書いている。
・何かの儀式の時など、禄と言って祝儀とか引き出物を贈るがその相手先とその品名が記されている。
・儀式会合の出席者名が書かれている。又欠席者名も。
豪放磊落、細かいことに気を使わないとみられていたが、道長は人間関係に敏感な性格であったで
あろう。
「コメント」
藤原の氏の長者として、超繁忙の中にもその立場を守るために日記を書かざるを得なかった。
気の毒なことだ。