歴史再発見「黄金」から見直す日本史                 加藤 廣 

 

⑦「ジパング伝説の正体と足利幕府 室町時代」  13年5月14日() 20時30分~ 

源氏も平家も滅んで北条の時代となる。ここから実権は鎌倉、名目は京都という二元政治が始まる。これで上手くやっていたが邪魔が入る、蒙古襲来(元寇)である。ここで北条の天下は大きく揺らぐ。

 

元皇帝のフビライは、高句麗を征服してここを通じて日本に通商と金を狙って貢物を要求した。しかし鎌倉幕府は拒絶。

 

「フビライは日本に金があるのをどうして知ったか? 

 今迄はマルコポ-ロ「東方見聞録」からと言われてきたが、年代的に合わない。事実は400年ほど前の「イブンフィタ゜スペ-?という人の本に、中国の東方に「ワ-クワ-ク」という国があり、豊富な金があり犬・猿の首輪も金との記述がある。これを受けてマルコポ-ロが「東方見聞録」を書いた。この国が日本とされた。

 

・鎌倉幕府の対応

 フビライの要求を拒絶して、襲来に備えた。その時の執権は18歳の北条時宗(時頼の子、宋より無学祖元を招いて円覚寺を創建) 二度の襲来(文永・弘安の役を撃退) 

 

・文永の役 1274年 10月  4万の兵で壱岐・対馬を蹂躙し博多に迫るが、大時化で敗退。

 ただ戦いは日本勢の大敗北で博多は炎上し、太宰府まて攻め込まれた。 

・弘安の役 1281年   15万の兵で来襲 今度は博多海岸に防波堤を作り撃退。今回も大風で蒙古船舶が沈没。

 

この元寇が鎌倉幕府の命運を決めた。

元寇がなかったら日本の歴史は大きく変わっていただろう。

・御家人たちの不満→ 外国との戦いなので、恩賞にする土地がない。

EX『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長絵詞)

 肥後の住人で奮戦し、恩賞を求めて鎌倉へ。

 

・鎌倉幕府の求心力がなくなった。 公地公民・律令制の崩壊→武士が土地を分捕り、朝廷は衰微。

 

・朝廷も分裂し南北朝時代となる。このあと混乱が100年以上続き、

 

・後醍醐天皇 

鎌倉末期・南北朝の天皇。天皇親政を目指して北条氏を滅ぼし建武親政を成就。しかし足利尊氏の離反で吉野へ、南朝を樹立。失意のうちに死去。近世に後醍醐天皇を不徳の君であるとする評価が定着し『大日本史』においては北朝を正統とする立場から後醍醐天皇を不徳とする認識が見られ、新井白石は『読史余論』において、王朝政治における累代の天皇の失徳が武家政権成立の過程であるとする。

  

「この時代に金はどうなっていたか」

・鎌倉時代以降、表向きは幕府へ裏で朝廷に流れていたが、混乱の中で朝廷への流れが止まりこの為朝廷は衰微していく。

・足利義満(室町幕府 3代将軍) 南北朝を統一し幕府の全盛期。明と勘合貿易を開き、金を独占し金閣寺を作る。金の使い放題。この時、明より極上の「曜変天目茶碗」10個を輸入。松永弾正、信長、秀吉、家康を経て今は3個が残る。