私の日本語辞典「百人一首から広がる日本語の世界」 吉海 直人 同志社大學教授
講師の専門は平安・鎌倉の文学、短歌で特に「百人一首」。源氏物語の研究からスタ-ト。
① 13年1月5日(土)
・百人一首 (読み癖としてはヒャクニンシュ)
小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・
藤原定家が選んだとされる私撰和歌集である。その原型は、鎌倉幕府の御家i人で歌人でもある宇都宮蓮生の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される]。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。
室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。
小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌も百人一首の形式で、100人の歌人から一首ずつ100首を選んで編まれた私撰集である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、後鳥羽院と順徳院の歌が無いこと。これは承久の乱を企て敗れた二院の歌を入れることを鎌倉幕府に憚ったとされる。後にこの二院は入る。この『百人秀歌』は、『百人一首』の原型となったと考えられている。これを定家の子(為家)が整理した。いわば百人一首の原型を定家が作りその子為家が完成させたとも言える。
・藤原定家 鎌倉前期の歌人。藤原俊成の子。新古今集/新勅撰集を撰。歌風は絢爛・巧緻で新古今調の代表。
日記に「明月記」がある。後の二条家/冷泉家/京極家の祖。1162年~1241年
・明月記 定家の子(為家)の側室(阿仏尼)が冷泉家に持ち込み、百人一首制作の事情が書いてある貴重なもの。
・阿仏尼 為家の側室で歌人、 「十六夜日記」で有名。紀行文、その子為相の
ために領地相続訴訟のため鎌倉へ下る時のもの。
・後鳥羽院 鎌倉前期の天皇、のち院。鎌倉幕府追討を企て敗れ,隠岐に流され没。
・順徳院 後鳥羽院の子で鎌倉前期の天皇。父と一緒に承久の乱を起し佐渡に流され没。