1705018⑦「戦後俳句の見取り図」
「内容概説」
戦後の俳句界の歩みを次の4ブロックに分け、その特色を解説する。
・1945年~1949年頃 敗戦からの復活
・1950年~1970年頃 理念と主張の時代
・1970年代 理念の消滅と伝統回帰
・1980年代~現在 「結社の時代」と戦後俳壇システムの完成と洗練
「昭和20年代~30年代」
俳句の歴史で見ると、傑作が生まれた時代。戦争中は俳句どころではない時代であったが、敗戦とともに今まで逼塞していた俳人たちが、続々と声を上げる。虚子、中村草田男、山口誓子、石田波郷、水原秋桜子・・・。
(いっせいに柱の燃ゆる都かな) 三橋 敏雄 東京大空襲を詠んだ傑作と言われる
(外にも出よ触るるばかりに春の月) 中村 貞女 昭和を代表する俳人 熊本出身
ホトトギスで虚子の指導を受ける 敗戦の開放感を詠んでいる。
(第二芸術論) この時期に俳句界に大ショックが走る。桑原 武夫の「第二芸術論」である。
桑原はまず作者名を伏せて、大家の作品の中に無名の作家を混ぜた俳句を並べ、これらから素人
と大家の優劣を問う事は出来ないとする。ここから俳人の価値はその党派性によってきめられて
いると批判。近代化している現実社会はもはや俳句では表し得ないとした。「老人や病人が余技と
し、暇つぶしである」 しいて芸術の名を使うのであれば「第二芸術」として区別し、学校教育から
排除すべきとした。
(第二芸術論への俳界の対応)
これに俳人たちは猛烈なショックを受けて、全くの自信喪失状態になる。これを受けての有効な
反論は出来ず、作品は一気に、難解な意味不明な作品ばかりとなる。
(頭無きブリが路上に血を流す) 山口 誓子
日本らしさ・風情を全く消去した意表を突く作品
(音楽漂う岸侵し行く蛇の上) 赤尾 兜子
全く意味不明。読者に全く伝えない、感情移入させない。むしろ謎めいた世界に誘う。こうして
第二芸術論に対抗しようとした。
この様に当時の俳人たちが、「第二芸術論」に力みかえって反論しようとする姿勢が見える。
この時代は作品の良し悪しではなくて、主義主張を俳句に叩きつけているようにしていたのだ。
(俳句雑誌の急増)
解放感と共に俳句雑誌が急増する、雨後の筍状態。
「天の狼」 山口誓子、「万緑」 中村草田男・・・・・全国津々浦々に。
(現代俳句協会の設立) 俳人の地位向上
戦後の特徴の一つとして、俳句界特有の旧来宗匠たちの結社を超えた大きな互助会的組織で、
俳人の地位向上を目標。これまで俳人の地位が低いと認識されていたので、西東三鬼・
石田 波郷と言った戦前の新興俳句と呼ばれ、反ホトトギスに位置する人々が中心となって、
結社・主義主張を越えて協会を作った。その大きなきっかけは「第二芸術論」であった。彼らなりに
俳句の表現、結社の有り方、俳人の在り方にまで言及して、その地位を高めようとした。その中で
虚子が相変わらず意味不明な作品を作り、ホトトギス王国を維持していた。
(なんなんと昼の星見えきのこ生え) 虚子
(社会性俳句)
第二芸術論に対する回答の一つとして、芸術的で前衛的な作品が登場する。金子 兜太に代表
される社会性俳句のジャンルである。昭和20年代、30年代は労働争議・基地闘争・安保闘争・
資本の搾取への戦い・民主主義・・・。
これを俳句も詠むべきとした。俳句として優れているか整っているかではなくて、社会問題を厳しく
取り上げねばならないとした。
(湾曲し火傷し爆心地のマラソン) 金子 兜太
長崎が舞台。マラソン選手が爆心地に近付くにつれて、徐々に原爆が落ちた瞬間の被爆者の
姿が目に浮かんで来たという句。又高柳 重信は、前衛俳句運動を展開。言葉と言うのはそんなに
簡単なものではない。
言葉を大切にして芸術至上主義でなければならないとして難解な句を読む。現代詩のように三行
に分かち書きする多行俳句と言うのを主張した。早稲田俳句研究会。
(身をそらす
虹の絶巓
処刑台) 高柳 重信
読者に簡単に読み解かせない作品ばかり。
社会性について詠むべきとした。従来の古めかしい俳句に安住してはならない。だから、
第二芸術等と誹られるのだとした。一種、切羽詰った心境で作品を作ったが、難解で意味不明な
失敗作の多い人達でもあった。
しかしこの流れは意味がなかったかというとそうでもない。敗戦というショックと価値観の混乱、
第二芸術論への反論とも解すべきであろう。
(月刊誌「俳句」の創刊 角川書店)
戦前の俳句界は結社が中心で、それぞれの流れを作っていた。この時期から以降今に至るま
で、俳句の流れは、これらの俳句総合誌から作られていくようになる。
(現代俳句協会の分裂) 昭和36年
前述したように、西東三鬼・石田 波郷等が中心となって作った「現代俳句協会」が分裂する。
「俳人協会」である。
そのきっかけは、(音楽漂う岸侵し行く蛇の上) 赤尾 兜子 の評価を巡る論争であった。
無季俳句に反対した中村 草田男らは、現代俳句協会を脱退し「俳人協会」を作った。
この時代はまだ俳人たちに主義主張と、論争するエネルギ-があった。しかし現代の俳句界には
もはやそのエネルギ-はないのが現実である。
「昭和40年代以降」
今から振り返ると20年代~30年代は熱い人々が主義主張をして論争した時代であった。40年代までこの雰囲気は残るが、それ以降 べき論や主張は消えて行く。そして現在まで主義主張は消えて、熱いものではなく、旧来の俳句らしい俳句が評価される時代となっていく。
理念が、主義主張が消えて、残るのは美しい言葉、季語不可欠、定型の俳句らしい俳句となる。
(カルチャ-ブ-ム)
日本経済が世界史に残る経済復興を遂げた1970年代には、日本国中にカルチャ-ブ-ムが
爆発的に流行って、女性愛好者が激増。1980年代の俳句界は、女性が圧倒するようになり
現在まで続く。
(伝統的作品の尊重)
季語不可欠で、流れのきれいな伝統的な作品が尊重される時代となった。
(法隆寺白雨やみたる雫かな) 飴山 実
綺麗な句で一瞬を切り取っている。こういう句が志向されるようになる。
(まとめ)
1945年~1970年までは非常にゴツゴツとした手触りの荒い男っぽい人たちの熱い主義主張の時代。1970年からは女性主流の美しい調った綺麗な句が評価される時代へと移り、現在に繋がっている。
「コメント」
第二芸術論の総括はどうなったのか。俳句界は受け入れたのか。現在の人々はどう考えているのか。この辺が知りたいもの。